「個人、そして群衆現象の本質」セッション 801
ミスターM 訳
以前にお話ししたセスの引用文をお送りします。セスはここでもウィルスについて語っていますが、病気やその他の、われわれが一般的に忌むべきものと考える出来事も必要性があって起きているのであり、より大きな観点から理解することの重要性を説いています。「生きるということ」だけではなく、「死ぬということ」の意味にも正面から向き合わずには、こうしたことを理解することはままならないでしょう。
『伝染病に関する疑問には、生物学的な観点だけから答えを得ることはできない。伝染病には多くの人の、広範囲にわたって影響力を及ぼす心理的態度が関わっており、関係する人すべての必要性と願望を満たしているのである。その必要性は、あなたがたの観点からすると、生物学的な結果とは切り離すことのできない、宗教的、心理的、文化的現実の枠組みの中で生じるのだ。・・・
死は種全体の目的を果たすばかりでなく、個人の目的にも適っている。求められずに訪れる死というものはないからだ。
たとえば、伝染病はそれにかかる各個人の目的を果たしていると同時に、より大きな、種としての枠組みの中でそれ自身の役割を果たしているのである。
伝染病はウィルスの所為で起こると考え、生物学的な状況を強調すれば、その解決策はまったく当然のことのように見える:それぞれのウィルスの性質を学んでワクチンを開発し、国民一人一人にその病原体を微量接種すれば、その人たち自身の体が反応して免疫力を獲得するというわけだ。
そのような方法には疑う余地のない、短期的な利点があるために、その先見の明のなさが見落とされてしまっている。たとえば、原則としてポリオに免疫のある人がポリオになることはない。この原理を駆使して、結核はほぼ撲滅された。しかしながら、そこには知らぬ間に進行する、たちの悪いさまざまな作用があり、それらは、そもそもそうした大規模な伝染病を研究する枠組みの狭量さによって引き起されているのだ。
第一に、〔伝染病の〕原因は生物学的なものではない。生物学的な側面は単に「死に至る意図」の運び手であるに過ぎない。第二に、実験室で生み出されたウィルスと体内に住み着くウィルスには違いがあるのだ─その差は体によっては認識されるが、実験装置によって認められることはない。
予防接種の結果として体が抗体を作り出し、自然に免疫性が得られた、ということもできるだろう。しかしその際には体の化学的性質も混乱をきたしているのだ。というのも体は自らが「本当の病気」にではなく、生物学的に偽造された病原体の侵入にたいして反応していることを知っているからだ。つまり、体の生物学的完全無欠さが汚されたのである。たとえば、ある病気の抗体が作られる際に、ほかの「同様の」病気に対する抗体も同時に作られることもあり、そのため体の防衛機構に負担がかかって、その人はのちに全く別の病気を発症してしまうかもしれない。人は、病気が何らかの心霊的もしくは心理的目的を果たす場合を除いて、病気にかかることはないのだ。したがって多くの人は、そうした厄介な状況に落ち入ることはない。しかしながら、その間に科学者や医者たちはウィルスを次から次に見つけ、国民はそれに対して予防接種を[打たなければならない]ことになるのである。・・・心の中で死ぬことを決めた人たちは、いずれかの病気か、あるいは予防接種の副作用で死ぬことになる。集団が関わる出来事はすべて、内なる現実と個人的な経験によって引き起されるのだ。人は物質的人生の自然な枠組みから自分自身を切り離すことはできない。文化、宗教、精神的風土が絡み合って、個人の、そして集団の出来事を形作るのだ。・・・
死は個人にとってばかりでなく、種の生命力を継続させるためにもなくてはならない生物的必然なのだ。死はスピリチュアルな意味でも、心理的な意味でも必要なものだ。なぜなら、肉体をもった生存がしばらく続くと、つねに新しく吹き込まれるはずの、あふれんばかりのスピリットのエネルギーがもはや肉体へと変換されることができなくなるからだ。そもそも誰でも、精神的にそして心霊的に生き残るためには、肉体的には死ななければならない、ということを知っているのである。
ある意味で、伝染病やその他のよく知られた病気は、死ぬための、容認しうる言い訳を提供するという、社会的な目的を果たしている、と言えるだろう。それはすでに死を決めた人たちにとっては、面目を保つための手段なのである。これはそうした人たちが、死のうという、意識的な決断をしたという意味ではない。・・・人は人生がはじまる前に、生きようという決断をするものだ、ということが理解されていない。自己とは、単に体の生物学的なメカニズムが偶然に人格を持つようになってできたものではない。一人一人が生まれたい、という願望を持って生まれてきたのだ。その願望がもはや機能しなくなったときに人は死ぬのである。どのような病気、伝染病、自然災害であろうと、はたまた殺人者の放った流れ弾であろうと、死にたいと思っていない人を殺すことはできない。・・・積極的な死への願望は、その自然な形においては、人生から逃れようとする、恐怖に彩られた、病的な、神経症的な、あるいは臆病な試みではなく、紛れもない、能動的、〔健康的な〕生存のための願望が加速化したものなのであり、その中にあって、各個人は、かつて子どものころ両親の家を離れたいと思ったのと同じように、物質的な人生から離れていこう、と強く望むのである』