Seth Network Japan
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対象を相対化する

 物事を理解するには、少し距離を置いて他との関係のなかでとらえてみるのが効果的です。たとえば、自分とパートナーとの関係を理解するには、他のカップルと自分たちを比べてみるのがいいでしょう。また、外国から日本を眺めてみると、日本という国をよりよく理解できます。そして比較する対象が増えるほど、自らをより相対的にとらえることができるようになります。

 セスの本を理解するのにも、他との比較が大きく役立ちます。たとえば、前述の「時間とは瞬間が次から次へと連なったもの」なのかどうか、という点について、次の文章を見てみましょう。竹村牧男「はじめての禅」(講談社現在新書 p.91 ~ 93。古い本ですがお薦めできる良書です)からの引用です。


桜

 たとえば、東京を発(た)って、桜を見に吉野に出かけたとする。我々はふつう、流れゆく時間の中を移動して、吉野に着くと思う。吉野に着いた時は、東京を発った時はずっと過去となったと思う。しかし本当にそういう流れ去る時間がまずあって、その中を変わらない自己が移動したのであろうか。

 道元は「道理この一条のみにあらず」といっている。では、どのような見方が可能であろうか。東京を発つ時にも、吉野に着く時にも、自己はいた。ここで存在のある時節を離れて時はないという立場に立てば、その存在の中に含まれている自己を離れて時はない、ということになる。ひいては、時は自己にあるべきだといえることになる。

 もしそうだとすれば、自己はそのつど常に存在しつづけたのだから、時も常に存在しつづけたはずであり、「時さるべからず」である。自己がいるところの時というのは、今に他ならない。自己が常にいつづけたということは、常に今がありつづけたということである。ゆえに、有即時の全体が、今・今・今……とあるのみとなる。

 「要をとりていはば、尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり」とは、そういう事態のことに他ならないであろう。吾有時は、吾に時有りと読むか、吾が有時と読むか、いずれにせよ、正に自己のいる今に尽有尽界はもれなくあり、その今に尽有尽界があることを離れて時というものがあるわけではないことを示すであろう。

 このとき、時間のみが存在と別個に流れゆくのではない。尽有尽界が、今から今へと、常に現在にあることになる。そこを道元は経歴(きょうりゃく)という。それは時の功徳だという。「有時に経歴の功徳あり、いはゆる今日より明日へと経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日ゑ経歴す。今日より今日に経歴す。明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるがゆへに」。これは要は、直線的な時の表象を排しているのである。核心は、今日より今日に経歴す、にある。


 以上の引用部分だけとっても、セスのいう時間と道元のいう時間が同じものなのか、違うとしたらどう違うのか、といったことを自分なりに考えていくきっかけになるでしょう。「直線的な時の表象を排している」のなら、「時間とは瞬間が次から次へと連なったものではない」ということになるのでしょうか?また、たとえば「『尽界』って、セスのいう『現実』のこと?『宇宙』のこと?『あらゆる尽有』って、『すべてなるもの』に相当するの?」といった具合に比べながら検証することによって、それぞれの概念を自分のなかで整理していくことができます。