「実在とは何か」、「実在はどうやったら証明できるのか」という問いは哲学でも物理学でも昔からの根本的なテーマです。
「もし目の前に見える本が実在するかどうか疑わしいと思ったら、われわれは手を出して触ってみるだろう。それでも夢かもしれないと疑えば、傍の人にたずねて、同じ本が見えるかどうか確かめるという手もある」という文章だけ見ても、いろいろな問題が考えられます。目に見えれば存在するのか、触れたら存在が証明されたことになるのか、見えもしないし触れもしないもの(電波、放射能、魂、観念など)は存在しないのか、傍の人にたずねて、その人には見えなかったら存在しないことになるのか、といった具合です。
そして特に大事なのは「あらゆるチェックをしてみてどこにも矛盾が生じなければ、われわれは本が実在すると結論する。一度結論してしまえば、もちろんこんなめんどうなことをいちいち繰り返すわけではなく、実在性の疑問は意識の外に出てしまう」というポイント。いったん意識の外に出てしまうと、「疑問」であったはずのものがいつの間にか「事実」だと見なされてしまうことが実に多いものです。これはセスのいう「基本的前提」にもつながっていますが、科学や哲学など全般に通じる規範(パラダイム)の問題です。
観念の枠組みをほぐす
実在にしても、時間や空間、科学や言語にしても、わたしたちを取り巻く概念の体系は基本的に単なる「取り決め」でしかありません(セスの表現を借りて「合意」、「紳士協定」などと呼ぶこともできます)。その意味では法律や経済などのルールと同じでしょう。ある国では何の問題もない行いが別の国では違法行為になることもあります。ある国で買うとたっぷり税金を取られるものが別の国では非課税であったりします。こうした相対的な取り決めを絶対的なものだと錯覚してしまうと、そこから先は錯覚に基づいた話になってしまいます。科学の場合でいえば、仮説と事実の区別がつかなかったら、真実は確実に遠ざかるでしょう。
わたしたちは日常、自分の観念に合う情報と合わない情報をほとんど無意識のうちに取捨選択していますが、その「フィルター」を形作っているのは、こうした「取り決め」をはじめとするさまざまな観念です。セスの本を読む場合にかぎらず、情報を交換する場合には、このフィルター自体をいつでもチェックできるようにしておくのが理想的でしょう。「自分の中に『固定観念』を見つけた。その「固定」を外してみたら、その観念はただ自分の邪魔になっていただけだった」などということは決して珍しいことではありません。
観念は障害物になることもあります。また、逆に次のステップへの踏み台になったり道具になったりもします。観念のチェックはセスも勧めていますが、チェックの際に大事なのは自分をごまかさないことです。