このルートに沿って並ぶ町の1つがニューヨーク州のワーツボロだ。ここはキャンプ・ラコタの町であり、その合宿イベントには何年も続けて参加した。ここで初めて夏を過ごした時には、全く新しい世界を発見したようだった。僕のカウンセラーの祖母にあたる人が、このキャンプ施設のオーナーだったので、最初から強みがあった。日々のプログラムはスポーツ活動を中心に組まれており、僕は小さいころから運動が得意だったので、僕の人気は保証されたも同然だった。しかし、一番大事なのは、理由は定かでないのだが、僕のカウンセラーが、非公式ではあるが、僕を養子にしてくれたことだ。彼の優しさと心配りをいつも思い出したものだ。
ワーツボロから 25 km ほどで、やはりルート 17 沿いにあるのがモンティチェロだ。背後にはキャッツキル山地がそびえている。僕が小さかったころ、僕の一家は、ここにあるさまざまなバンガローの集落でよくバケーションを過ごしたものだ。全く久しぶりにワーツボロとモンティチェロを通り過ぎて、そうした、比較的、屈託(くったく)のない日々を思い出した。僕の中には、そんな日々に戻れるものなら戻りたいと願っている部分もあった。それでも、1972 年1月4日、僕のターゲットはニューヨーク州エルマイラ市、西ウォーターストリート 458 番に絞られていた。クラスが始まる予定の午後7時には到着している必要があるのだ。
ジェーンと彼女の夫ロバート・F・バッツは、古いビクトリア朝風の家の中にある、2世帯分のアパート区画を借りて住んでいた。すぐ近くにはチェマング川が静かに水音を立てて流れている。階段を上り、ジェーンのリビングルームに足を踏み入れて、まず、目に留まったのは、そこに集まった人々(の風貌)だった。僕が常日頃つきあっているのは、長髪でヒッピーとして生きている友人たちがほとんどだった。その彼らが、もし、ジェーンのリビングルームを見たとしたら、そこにいるほとんどの人間を「体制派の連中」と見なしたことだろう。「体制派」とは、当時、伝統的な価値観を持ち、その伝統に従った人生のレールを進んでいく者たちに対して使われた表現だ。僕たちは正に、その伝統的な価値観から抜け出そうとしていたのだ。
そうした参加者たちの中には、学校の教師、看護婦、親子4代にわたってエルマイラに暮らしショッピングセンターを経営している人、元修道女などがおり、地元に住む主婦も結構いた。どれもこれも、僕が予想していたのとは少しばかり違う。この種の人たちは、存在の本質とか、その手のことについて疑問を感じるようなタイプではない、と僕は思っていた。しかし、そんな、型にはまったものの見方は、すぐに打ち砕かれたのだった。そして、それからクラスが何年も続いていく間には、さらに何度も打ち砕かれることになった。