人は死ぬと姿が変わります。ただ、その姿が、わたしたちの感覚器官では知覚できない形のエネルギーであるというだけのことです。亡くなった人々はわたしたちと同じくらい生きています(生きている「度合い」は同じだということ)。あるいは、別の言い方がお望みなら、わたしたちも彼らと同じくらい「死んでいる」わけです。赤ちゃんは、自分のいる部屋からお母さんが別の部屋に行っても、それは一時的に「見えなくなった」だけで、お母さんは生きている(消えてしまったわけではない)ということを学習しなくてはなりません。死も同じことです。死についての観念となると、わたしたちも赤ちゃんと大した違いはありません。「亡くなった」とされている人々は、わたしたちが身体的に知覚できない、違うレベルの現実界にいるので(わたしたちには)一時的に見えないというだけのことです。
わたしたちが「亡くなった」人々と行う活発なコミュニケーションに気づくことができる、もう一つの便利な手段は、直観と想像力です。このどちらも、はるかに、わたしたちが通常考えている以上のものです。また、そうした直観や想像力と並んで、夢や符合など、身体的、物質的なレベルでの手がかりを使うことで、わたしたちが自らの現実界を創造していること、そして、わたしたちが(特定の行動や出来事を)選択する理由に気づくことができます。
もっとも、(他の人々に対する)同情の気持ちは常になくてはいけません。「自分の現実は自分が創る」という概念を悪用することを選ぶ人たちが大勢います。自らの利己的、貪欲、無情な性格を正当化するためです。自分自身の内側に目を向け、なぜ、そういったもの(利己、貪欲など)を感じるのかを見つけようとはしないのです。こんな問いが浮かんでくることでしょう。「どうして貧乏人を助けるべきなんだ?彼らは貧乏であることを(自分で)選んだわけじゃないか」。答えは「イエス」です。彼らは貧乏であることを選び、あなたは貧乏でないことを選びました。もっとも、わたしたちはみんな「人生の状況から学ぶこと」を選んだのです。ここで、物に不自由しない人々が困窮している人々から学ぶ「レッスン」は、愛すること、同情を感じること、そして、自分がなぜ、まだ他人を愛せないのか、他人に同情できないのかを理解することです。確かに、貧しい人々も自分たちの現実を創造していることに違いはありません。それでもなお、わたしたちは彼らを助けるようになっているのです。そうでなかったら、わたしたちはどうやって、愛すること、憐れみを感じること、人を助けることを学べるでしょう?助けを必要とする人々がいなかったら、慈悲の念を抱くということを誰がわたしたちに教えてくれるでしょうか?