4a. 息子さんの件ですが、息子さんが亡くなったことで、注意を向ける必要のあった何かが開(ひら)けたり癒されたりしたということはありますか?
息子はダンデという名前でした。わたしには、彼が若くして亡くなってしまうという感じ、怖れ、妄想、あるいは意識 ── どれでもお好きな呼び方を選んでください ── が常にありました。亡くなったのは、あと数ヶ月で 25 歳という時でしたが、それよりもずっと早かったとしてもおかしくないことがわたしにはわかっていました。この意識、あるいは、この可能性に対する意識はわたしの人生に影響しました。ダンデの母とわたしは、ダンデが3歳の時に離婚したのですが、わたしは(その後も)彼にずっと会って、常にとても緊密な関係を保っていました。丸々一年、一緒に生活したこともあります。ともかく、わたしはいつも、これが最後の会話になるかもしれないというつもりで彼と話をしました。ですから、愛情をたっぷりと表現するのは簡単でした。
電話で話した時にしろ、直接会った時にしろ、さよならを言う時は常に、これが最後かもしれないという心構えで別れを告げました。もっとも、それは気の沈んでしまうようなことではありません。単に一つの可能性としてわかっていたということです。それによって、愛情を表したり与えたりすること、親密な関係を保つこと、共有することなどがずっと易しくなりました。まあ、わたしはいずれにしてもそんな調子です。ともかく、ダンデが亡くなり、わたしはセス流の観念や物事に一層、積極的な役割を見出すべく、改めて意を注ぐことになりました。(それまでは)ずっと、セスの話す数々の概念を知的な面から信じ、その可能性との相互作用を楽しんでいましたが、ダンデの死は感情的な面を満たしてくれました。自分がセスの概念を「気持ち」の上でも信じていることがわかったのです。それによって、そうした概念は単なる概念に留まらず「本物」になります。