その状況でどんなことが行われたにしても、最終的には当事者全員の成長と学習につながります。また、実際には、昔からの意味でいう「死」というものはないわけです。殺された人たちはただ、エネルギー状の姿に変わり、それが眼には見えないというだけのことです。いかなる存在も消されたり壊されたりしてしまうことはありません。あなたとナチの人間がそれぞれ、どんな選択をしようと、各人はそうしたことすべてをそれぞれの現在の人生から眺めることになります。それぞれのすべての次元 ── ハイアーセルフ(higher selves)、魂(souls)、オーバーソウル(oversouls)など ── にわたってです。そこでさまざまな感情を経験し、決定を下すと、それがこの人生の残りの「時間」と、未来や過去の人生の選択に影響するのです。
(ナチに殺すよう命じられた)その1人の命を奪えば、あなたには、その責任があるわけですが、「責任がある」とはどういうことでしょう?あなたがその1人を殺さない場合、ナチの人間が 10 人を殺すことを選択する責任は、あなたではなく、そのナチの人間にあります。でも、「責任がある」とはどういうことでしょう?
さらに興味深い問題があります。そのナチの人間がまもなく 10 人を殺害するであろうことがわかっているとします。しかし、彼がそれを実行する前に、あなたには彼を殺すチャンスがあるとしたら … あなたは彼を殺すべきでしょうか?いや、もっといい問題にしましょう。ヒトラーが近い将来、ホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)などで 1,100 万人の命を奪うことがわかっていて、あなたには彼がドイツの総統になる前に彼を殺すチャンスがあったとしたら … あなたは彼を殺すべきでしょうか?
わたしだったら、それでも「ノー」と答えるでしょう。わたしたちはホロコーストでどんなことが起こったか知っています。それがどれほど怖ろしく、人のプライドを踏みにじり、悲惨で、残酷で(残念ながら)人間の本質をさらけ出したことだったのか、わかっています。(しかし)ヒトラーが権力を手にしなかったらどうなっていたか、どうなり得たかはわかりません。彼はナショナリズムの過激な狂気をその極限まで推し進めて世界に見せつけました。もし、その時にその教訓が与えられ、そこから(わたしたちが)学んでいなかったとしたら、核兵器が作り出された後、このナショナリズムの重大な“レッスン”は、過激な国家主義の例として核戦争を使って展開されていたのかもしれません。何かが起こった後、何が起こらなかったのかは、意識的なレベルではわかりません。わかるのは(実際に)起こったこと、そして、起こることだけです。