また、こう言われて辟易(へきえき)することもあるでしょうが、犠牲者というものはなく、死も存在しません。ホロコーストで亡くなった人たちはみんな、現実界のいくつかのレベルでそれに同意したわけです。わたしたちにはそのレベルのことが、生活の中では、霊的で時間を超えた(「目が覚めている側」に対して)夢の側の領域でしか意識的にわかっていません。そこでは、死とは、わたしたちが三次元の世界で考えているようなものとは違うことがわかるわけです。繰り返しますが、選択はいつでも自由です。また、何よりも大事なのは思いやりの心です。でも、こうしたドラマを演じきることがなかったら、ほかにどうやって、仲間たちとのつながりや思いやりの大事さを体験し、学び、感じることができるでしょう?また、こうした盲目性や残虐性を存分に発揮する“邪悪な”人々がいなかったとしたら、他にどうやって、こういうドラマを演じきることができるでしょうか?わたしたちはみんな、この世で輝いていたり愚かだったりするのには(それなりの)理由があるわけです。
わたしなら、こうした“出演者”すべてについて、あらゆるシナリオを観察することでしょう。単にまた何人かのバカな人間が物質的な世界で愚行を働き、それがこんなにも多くの恐怖、心配、涙、悲惨さを産み出すことになる、そのシナリオを。彼らは単に猫の一匹でも見つけてきて、ヒモでも取り出して(その猫と)遊んだり、その後、外にビールでもペプシでも飲みに行ったりしていればいいのに、なぜそうしないのか。エッチしたり、スクラブル(ボードゲーム)をやったりしたっていいわけです。食事して、ジョークを飛ばして、その後はバスルームに行って歯を磨いて寝ればいいのです。