夢、「進化」、価値の達成 第1巻
セッション 883
マサ 訳
(ささやくように)こんばんは。
(「こんばんは、セス」)
口述だ。章のタイトルを君に言うのを忘れていたな ──「始まりの前」だ。
さて、君達は、世界が一人の神に創造されて動き始めたこと、しかし、その神はずっと、その領土(世界)の外側にいたということを(仮にそれが本当であったとしても)科学的に証明できない。また、世界が創造されたのは偶然の産物だと科学的に証明することもできない。── だから、私がこれから話そうとしていることも君達には証明できないだろう。普通の意味では、ということだ。
しかし、私は、解説と並んで、主観的な証拠を見つける場所を示すヒントや手がかりも君達に与えられたらと願っている。ピリオド(書き取っているバッツへの指示)。
君達は何よりも、まず自分が主観的に知っていることを通して自らの人生を生きている。そこで、私は君達の意識の中にある記憶を呼び覚ましてみようと思う。それは、世界が形作られた時、君達自身の内にある精神が密接に関わっていた出来事の数々に関する記憶だ ── それらの出来事は過去のことであるかのように見えるかもしれないが、今現在でも起こっている。
宇宙の始まりの前には全能で創造的な源泉が存在したことを前提としよう。(休止)この「神々しい主観性」が、宇宙の始まり以前と同様、君達の体験している世界にも現存することを示せたらと思う。繰り返しになるが、私は、この根元的な主観性を「在るもの総て」(“All That Is”。万有)と呼ぶ。私は、知性が直観にすっかり裏打ちされていない限り、殆ど、知性の限界に挑むような数々の観念を言葉で表現しようとしている。だから、君達も本書を読む際には、自分の頭と直観を使う必要があるだろう。
在るもの総ては、始まりの前、起こり得る全ての創造に対する無限の衝動を自身に内包していた。(休止)壮大な創造性を備えていたので、自らの想像、夢、考え、気持ち、気分など、それがほんの微々たるものであっても、一種の現実性、活発性、強烈さを帯び、そうしたものが自由を求めんばかりになるほどだった。(しかし、それは)何からの自由か?何をする自由か?何になる自由だったのか?
その体験、その主観的な宇宙、在るもの総てに備わった、その「心」(の中の光景)は、あまりに輝かしく鮮明だった。在るもの総ては、心の中で、この、どこまでも栄え続け、どこまでも成長していく内的な景色の中を放浪しながら、自身を見失ってしまいそうになるほどだった。考え、気持ち、夢、気分などには、どれもそれ自体に、この際限ない主観性に備わった属性全ての印が記されており、それを消すことはできなかった。(考えや気持ちなど)それぞれが自らの創造性、自らが創造されたのと同じように創造したいという欲求で熱を帯び、振動していた。
始まりの前には一つの内的な宇宙が存在した。その宇宙には始まりも終わりもなかった。私が「始まりの前」という言葉を使っているのは、君達が理解しやすいようにするためだ。括弧をつけて(バッツへの指示)(たとえば、この内的な無限の宇宙と同じものは今も存在している)。