Seth Network Japan
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出来事と記憶

個人、そして群衆現象の本質
セッション 806 1977/07/30

マサ 訳

 こんばんは。
 (「こんばんは、セス」)
 セッションの第1部だ。

 出来事は、君達が教わってきたように、具体的な形に出来上がった「完成バージョン」として存在するわけではない。従って、記憶に関しても話は違ってくる。

 出来事に備わった創造性、そして、出来事には終着点などないということを思い起こしてみなくてはいけない。一つの人生においてさえ、特定の記憶が、過去に起きた出来事の「真のバージョン」であることなど滅多にないのだ。元の出来事は、もちろん、それに関わる人々それぞれの異なる視点から体験されるため、出来事に含まれる様々な意味合いや出来事自体の基本的な意味も各人の視点によって変わり得るということだ。君達の表現で言えば、初めて起こる、その特定の出来事は、言わば、関係者達に「作用」し始める。(すると)各自、その出来事に対して独特の(個人的な)バックグラウンドや気質など、文字どおり、夥(おびただ)しい数の(特質や条件を通して)様々な色付けを行うので、たとえ他の人々と共に経験した場合でも、その出来事は専ら各人にとって独自のものに留まるのだ。

 その出来事は、起こる瞬間、こうした諸々の「成分」を通してフィルターにかけられ、変わり始める。そして、それに続く出来事の一つ一つによって、ほんの少しずつ、さらに変わっていく。そうなると、一つの出来事に関する記憶は、過去によって形作られるのと同じくらい、現在によっても形作られることになる。記憶はもちろん、連想によって(次々と)引き出され、記憶されていた出来事が(新たに)秩序づけられるのだ。それによって、そうした出来事が一層、形を変えたり、色付けされたりすることにもなる。

 君達は一つの時間構造に馴染(なじ)んでいるので、過去における特定の時間に起こった事を思い出す。普通は、そのやり方で出来事を(時間軸上に)並べられる。言ってみれば「神経学的なポケット」が並んでいて、身体は活動を知覚しながら、そのポケットに出来事を入れていくわけだ。こうした神経学的なパルスは、君達の知っている生物学的な世界に合わせてできている。

 こうした意味では、前世や来世の記憶は通常、(現世とは)対照的に、ぼんやりとしたものに留まる。全体的に見れば、これは必要なことであり、だからこそ、身体の直接的な反応は君達の認識している時代にぴったりと焦点を合わせることができる。他の人生の記憶は、言わば、そういった他のパルスの下にずっと抱えられている形になり、ある意味では決して静止することがないので、きちんと検証できない。しかし、それは現在の人生における君達の記憶の「底流」とでも呼べるものを形成している。(次のページへ続く)