Seth Network Japan
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 その「善」とは、どれだけの損失の上に成り立つべきものなのか、また、誰にとっての善が基準となるべきなのか。人が善を追い求める行為は、宗教裁判(異端審問)やセーレムの魔女狩りが起こる一要因となった。そして、今日、政治の面で多くの人々は、ロシアが「敵国」であり、それ故、その国を破壊するためには、どんな手を使ってもよいと信じている。また、(アメリカ)合衆国内には、(いわゆる)「体制派」は中核に至るまで腐りきっているので、それを壊滅させるには、いかなる手段も正当化されると熱烈に信じている人々もいる。さらに一部の人々は、男女を問わず同性愛者とは「悪」であり、人として真の品性に欠ける(ひいては普通の敬意をもって扱われる必要はない)と信じている。こうしたことは全て、善に関する君達の観念が絡んだ価値判断だ。

 (休止)最初からできるだけ悪い人間になることを志す者など、そういるものではない。少なくとも、いくらかの犯罪者は、盗むことによって自分達は単に不当な社会を正しているのだと感じている。(もちろん)それだけが彼等の動機だと言っているわけではない。しかし、彼等は彼等なりの善悪の図式に自らを当てはめることで、なんとか自分達の行いを正当化してみせるわけだ。

 狂信者達はいつでも大袈裟な理想を掲げる。しかし、彼等は同時に、人間は生来、罪深いものであり、個々の人間は無力だとも信じている。こうした点に気づかなくてはいけない。狂信者達は自己の表現を信頼することができない。自己には裏表がある(二枚舌だ)と確信しているからだ。そうなると、彼等の理想はますます遠ざかることになる。狂信者達は他の人々に社会的な行動を起こすよう呼びかける。彼等は個人というものが決して効果的ではあり得ないと信じている。だから、彼等の集団は私的な個人が理性的な形で寄り合って、各々の資質を発揮しあう集まりではない。彼等の集団を構成する人々は、むしろ逆に、自らの個性を主張することを怖れ、個性をその集団の中に見出すことを望む、あるいは、連帯的な個性を築こうと願う ── (強調して)それは不可能なことだ。

 真の個人は社会的な行動を通じて多くのことができる。人類とは社会的なものだが、自らの個性を怖れる人々が個性を集団の中に見出すことは決してないだろう。彼等が目にするのは自分自身の無力さを描き出す風刺画だけだ。