原子力
個人、そして群衆現象の本質
セッション 844 1979/04/01
マサ 訳
ハリスバーグ(スリーマイル島)の原発施設で起こった核反応炉のトラブルを見てごらん。最初は「原子力」という観念全体が一つの夢であり、プライベートな個々人の想像行為だった。それがやがて仮説や(実際の)技術を通じて多くの人々の夢になった。その夢からはすぐさま数々の蓋然性があらゆる方向に紡(つむ)ぎ出された。途方もない可能性と危険性もだ。
(原発事故のあった)このとおりの状況が、何よりも映画に描かれて社会的な時流の中に到達したのは、まず偶然であろうはずがない(原発事故を描いた「チャイナ シンドローム」を指す。この映画が公開された 12 日後にスリーマイル島原発事故が起きた)。
単純明快に言って、原子力は(人間にとって)即、「パワー」を意味する。それはいいものなのか、悪いものなのか?人類の夢の中で、それは神が持つパワーであり、(強い調子で)宇宙のパワーを意味する。君達の表現で言えば、人間は常に自分自身を自然とはかけ離れた存在だとみなしていた。故に、人間は自然のパワーからも引き離されていると感じなくてはならないし、夢の中でも両者の間には大きな隔たりがあるに違いない、というわけだ。そうなれば、核エネルギーは実際に夢の象徴となり、(人類が)対処するべきものとして、この世に現れてくることになる。
原理主義者達は、原子力とは、例えば、世界を破壊するために神が使うこともあるパワーだと考える。ハリスバーグでの事件は彼らにとって一つの事を意味する(それなりの意味がある)。科学者の中には、原子力を人類の大いなる好奇心と同一視する者達もいる。彼らは自分達がこの偉大なるエネルギーを自然からもぎ取っているのだと感じている。それは自分達が「自然よりも賢い」からであり、それだけでなく、仲間の人間達よりも賢いからだというわけだ。だから、彼らはこうした事件を彼ら独自の見方で解釈している。もちろん、蓋然性はまだ、うねり続けている。人々は、私的、集団的な夢の中で、このストーリーにおける、あらゆる種類のエンディングをとことん試すのだ。
全体としては、程度の差こそあれ、このなりゆきとして影響を受ける人々は何百万人もいる。