善と悪
個人、そして群衆現象の本質
セッション 852
マサ 訳
ヒトラーは、自分が「より偉大な善」だと見做(みな)すものに照らしてみれば、いかなる残虐行為も正当化されると信じていた。それを理解しなくてはいけない。彼が掲げ、提唱していた理念の多くは、程度の差こそあれ、世界の共同体においても、長い間、受け入れられていたものだった。しかし、それが、ここまで急速に行動として表れることはなかったのだ。世界の国々は、自分達を攻撃する覚悟のできているヒトラーのドイツに、自分達自身の中にある最も質(たち)の悪い傾向が人格化されているのを見た。ユダヤ人は様々な理由から ── これもまた、話の全てではないのだが ── 世界中の遍(あまね)く犠牲者の(代表)役を演じ、ドイツ人達、ユダヤ人達の双方が基本的に「人間の本質は邪悪なものだ」という点で意見を一(いつ)にしていた。現代の世界は初めて、政治的な出来事に対するウィークポイントがあることを知った。そして、科学技術とコミュニケーション(通信技術とマスコミ)は戦争のあらゆる危険を促進したのだ。ヒトラーは人間の持つ最も忌(い)まわしい性癖の多くを表面化させた。人類は、これも初めて、そうしたこと自体が必ずしも正しいとは限らないこと、そして、より広い意味で、世界規模の戦争に本当の勝者はあり得ないことを理解した。ヒトラーが世界で初めて原子爆弾を使うことも(そのつもりさえあったなら)充分にあり得た。
しかし、ヒトラーは奇妙な形で、自分が一番最初から不運の下にあることを知っていた。そして、彼がドイツに抱いていた望みに関する限り、ドイツ(人たち)にも、それ(不幸な運命にあること)がわかっていた。ヒトラーは(自分に対する)破壊に憧(あこが)れた。それは、比較的、正気な時々には、彼自身でさえ、自分のかつて描いていた理想が捻(ね)じ曲がってしまったことに気づいていたからだ。それが、ひいては、彼がしばしば、自分自身の努力を怠(おこた)ることに繋がった。連合国側の重要な勝利のうち、いくつかは、こうした(ヒトラーの)サボタージュの結果もたらされた。同様に(休止)ドイツが(原子)爆弾を持たなかったのも同じ理由による。
さて、話を広島に移そう。広島では、あの極めて破壊的な爆弾が炸裂することになったが(1945 年 8 月 6 日)── それは、どんな理由でだろうか?生命を護(まも)るため、アメリカ人の生命を護るためだ。アメリカ人の命を護るという意図は、なるほど「善」だが、この場合、日本人の犠牲の上に成り立つものだ。その意味で、アメリカにとっての善は日本にとってのものではなかった。そして、「命を救う」ためにとられた行動は個々人の生命を奪うようにも設計されていたわけだ。(次のページへ続く)