Seth Network Japan
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合理的アプローチ

魔法的アプローチ
セッション 80/08/11

マサ 訳

 さて ──
(「こんばんは、セス」)

 こんばんは。(前セッションの話を受けて)君達が1つの文化として知性を使いすぎているというわけではない。人生に対するアプローチとして、君達は知性に頼り、他の全ての能力を締め出しているということだ。ピリオド。

 知性とは輝かしいものだが、単独では、実際、自分なりに時間の中でも空間の中でも孤立してしまう。(同じ)人格を構成する他の部分では、そういうことがない。知性は、ふだんの枠組みや理論的な根拠が全て付いて回っているところに過度のストレスがかかると、実際、怯えたり被害妄想的になったりすることもあり得る。というのも、知性は出来事がすでに起こってからでないと本当に知覚できないからだ。知性には、明日、何が起こるかがわからない。そして(ここでは)過度のストレスに晒(さら)されているわけだから、その被害妄想的な性癖にできるのは最悪の事態を怖れることだけだ。

 こうした性癖は、知性本来のものではなく、知性が、こういう孤立した形で働くよう強いられた時にだけ現れるものだ。それは時間と空間の中で孤立しているだけではなく、人格の他の部分から心理的にも孤立してしまう。それらの部分は、知性の持っていない追加的な情報を知性にもたらしてくれるようになっている、一種の「魔法的なサポート」であるのにだ。

 人生に対するアプローチの方法として実践されている、いわゆる「合理的なアプローチ」は、随分と悲観的なものだ。それは自らの方法、問題に対する“解決策”、最終地点に到達する独自の手段、満足できる願望を自分で抱えている。人生に対する、そのアプローチの方法にどっぷりと浸かっているので、それ以外の方向性が全く見えなくなってしまっている人は多い。君とルバートの場合は、これに当てはまらないのは明らかだ。そうでなければ、このセッションにしろ、こういった他の活動にしろ、行なってはいないだろう。

 不利な点を抱えているとは言っても、特定の種類の人々には、もちろん、合理的なアプローチの方が他よりも合っている。君達は、産業化された科学的な社会に暮らしてきているわけだ。だから、社会的、政治的な点から世界を眺めれば、合理的アプローチのもたらした利益と多大な不利益が至る所に現れているのがわかるだろう。芸術家達にとっては、どんなジャンルに属する者でも、こうしたアプローチは、一番、親しめない。いくつかの重要な分野で噴出してくる、人間の膨大な創造性を真っ向から否定することになるからだ。もっとも、君とルバートには、確固とした土台に根ざした現実が全く違うものであるという確証がある。過去において、君達は二人とも、自分が、どこか損をしている気がしていた。理屈の上では、我々の作業(口述やセッションなどを行うこと)は魅惑的であり、創造的な点でも意義があるのだが、必ずしも“科学的に有効な”確固とした土台に根ざした類の記述が出てくるわけではないからだ(全体をかなり強調した口調で)。