個人的現実の本質
セッション 665
マサ 訳
こんばんは。
(「こんばんは、セス」)
さて、口述だ。繰り返すが、偶然というものはない。また、どんな状況においても、死ぬ用意ができていないのに死ぬ者はいない(死ぬ者は皆、死ぬ用意ができている)。これは自然災害による死でも、その他の状況でも当てはまることだ。
君達は、死に方にしても死ぬ時にしても、自らの選択で決める。ここでは、君達がこの人生において自分の観念として理解しているものを扱い、他の人生から「染み込んでくる」こともあり得る観念については後の章に譲ることにしよう。いずれにしても、君達がどんな観念を受け入れようと、どんな理由があろうと、君達の「パワーの基点」は現在にある。
これを理解するのは、迷路のように入り組んだ「過去における数々の理由」について極度に心配したりするよりも遙かに大事なことだ。というのは、マイナス思考のやり方だと、そうした観念を現時点から変えられるということも忘れて途方に暮れてしまうことになりかねないからだ。君達は自分の抱いている観念をいつでも好きな時に様々な理由で変えることができる。例えば、高齢に達するということは落ちぶれた精神と屈辱的な身体を意味するのだと、あまりにも固く信じているため、若くして世を去る人は多い。彼等は自分達が(そうなると)考えているような状況の下で生きたくはないのだ。また、中には極めてストレートに、他の人々にとっては最も恐ろしいと考えられるような状況で死ぬことの方を好む人々もいる。大海原(おおうなばら)の荒れ狂う波に攫(さら)われたり、地震の際に(下敷きになって)押しつぶされたり、ハリケーンの暴風にめった打ちにされたりといった具合にだ。
こうした人々にとっては、病院でじわじわと死を迎えたり病気を経験したりするなど到底、考えられないことだろう。これはいくらか(当人の)気性であるとか、ごく普通の個人的な違いや好みといったものに関係している。自分自身の死が差し迫っているのを知っている人間は、一般的に知られているよりもずっと多い。彼等は気づいているのに気づかぬふりをする(表面的な意識の上では気づいていないように見える)わけだが、災害で命を落とす人々は、その体験、そのドラマ(劇的な出来事)、そして、それが起こった時の恐怖をさえも(自ら)選んでいる。燃えるような知覚(五感に対する強烈な刺激)の中で、生命をかけて挑み、一つのチャレンジに立ち向かっている最中、従順にではなく「闘いながら」物質的な人生を去る方がいいというわけだ。
(9 時 54 分)自然災害では膨大なエネルギーが湧き起こり、解き放たれる。本質的に、人間が制御しようとしてもしきれないものだが、正にその特徴が人間に自分自身の精神を思い出させてくれる。それは、こういった深遠な出来事は常に、誕生してくる創造性に関わっているものだからだ。その創造性は地球の奥底からでさえも湧き上がってくるほどであり、陸と共に人間達の人生をも新たに形作るのだ。