Seth Network Japan
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 世界というものに対する概念や空想、神話は世間一般の体験から遠く隔たっているように見えるかもしれない。しかし、君達の知識や体験は全て、私が「フレームワーク2」と呼んでいる、その創造的な実存の次元を起源としている。言ってみれば、空想、神話、想像とは、事実に基づく世界が芽生える「苗床」であり、君達の身の回りにある細々(こまごま)としたものは悉(ことごと)く、そこから現れ出てきたわけだ。そうなると、「神話」とは何だろうか?その言葉で私は何を指しているのか?

 神話とは(既存の)事実を曲げて作られたものではない。事実の方が神話という母体から生じてこなくてはならないのだ。神話には現実の本質についての内在的な知識が含まれている。空想的な言葉の数々には自然自体に匹敵するほど大きな力を持った知識が収められているのだ。神話を作ることは心に備わった自然な特質だ。それは心の成分であり、(単に物語を作るだけでなく)内側の現実界を神話という形で表現するといったような他の要素と一つになる。すると、その表現を雛型(ひながた)として君達の文明が組織づけられていくのだ。また、それは知覚の道具としても使われる。その「レンズ」を通して、君達は人生における個人的な出来事の数々を歴史的な背景の中で捉えるわけだ。

 (10 時 6 分)神話を受け入れれば、もちろん、君達はそれを事実と呼ぶ。(プライベートの)生活や仕事や社会の一部となり、その土台が自明であるように見えるからだ。神話は広大な心のドラマであり、そこには、事実(とされている話)以上に真実が込められている。それは、現実界で延々と繰り広げられる劇を見せてくれる。ここできちんと理解してもらわなくてはならないのは、私が神話について語る場合、心的な出来事の性質も含めた話をしているということだ。心の中で起こる出来事にはフレームワーク2の中に存在する永続的な現実界がある。そこで形作られたパターンが君達の世界で解釈されるわけだ。

 自然災害に巻き込まれたとする。こんな疑問が湧いてくるかもしれない。「自分は神に罰せられたのだろうか?(だとしたら)どんな理由で?天災は神の仕打ちなのか?」 科学者なら、こう問うかもしれない。 「科学技術と情報のレベルがもっと高かったら、災害をなんとか予測して多くの人命を救うことができただろうか?」 彼(科学者)は自分自身と感情を切り離して考えようとするかもしれない。また、その災害は単に人格などない自然が招いた結果だと見なそうとするかもしれない。自然は自分の進む先に何があろうと(どんな犠牲が出ようと)知ったことではないというわけだ。

 しかし、いずれにしても、こうした状況では即、人間の個人的な現実界や進んでゆく方向、そして、人間と神、地球、宇宙との関係などについての疑問が湧いてくる。人は、こうした疑問を自らの観念に従って解釈するものだ。