(今言ったように)在るもの総てには君としての自分自身に意識を向けている部分がある。それは例えば、実際、君の人生に焦点を合わせ、自らのエネルギーを君の中に向けている部分であり、必要があれば君はその相手(部分)に助けを求めることもできる。その一方で、総合的な神の人格(パーソナリティー)というものもある。それは自分という存在が自ら創造したものの総和以上であることも心得ている。これが最も深い意味での「在るもの総て」だ。
私は話をできるだけシンプルにしようとしている。君としての自分を知っている在るもの総ての一部も、自分が君以上の存在であることを知っている。いいかね、この、自分が君であり、君以上であることを知っている部分こそが個人的な神(the personal god)だ。繰り返すが、この形態、在るもの総てのこの部分が君のために気を配るのであり、一人のパーソナリティーとして助けを求める対象になり得るのだ。しかし、この部分はそれ自体、在るもの総ての一部でしかない。
休憩をとるといい。続きはそのあとにしよう。
(9 時 27 分に休憩。9 時 38 分に再開)
いいかな、それでも、この総合的なピラミッド形態でさえも静的な(変化のない)状態にあるわけではないのだ。(人間の抱いている)神の概念はどれも、あるいは殆どが静的な神の話になるが、神学上の中心的な難題はそこにある。この総合的な形態の意識と体験は変化し、成長するのだ。繰り返すが、静的な神というものはない。「これが神だ」と君達が言うとき、神はもう別のものになっているのだ。ここで「神」という言葉を使っているのは話を単純にするためだ。
在るもの総ては、あらゆる部分が絶え間なく変化し、たたみ込まれたり広げられたりしている。在るもの総ては自分自身を知ろうとして新しいバージョンの自分をひっきりなしに創造するのだ。この、自分を探すということが創造的な活動であり、全ての活動の核だからだ。
それ故、意識は自分自身を知ろうとし、君を(も)知っている。一つの「意識」である君は自分自身を知ろうとし、程度の差こそあれ、自分が在るもの総てとは異なる別個の存在でありながらも、その一部であることに気づいていくのだ。