Seth Network Japan
Seth Network Japan

在るもの総て - 2

初期セッション集 第7巻 1967/01/11
セッション 311

マサ 訳

 こんばんは。
 (「こんばんは、セス」)

 さて、哲学的なことで少し、はっきりさせたい事柄がある。ルバートはそのいくつかについて、やや混乱した状態が続いているのだ。従来からあるキリスト教の神の概念は多くの点で都合のいいものだった。そして、その概念には真実も多く含まれている。いいかね、それは本当でありながら本当ではないわけだ。

 これがひとつの「象徴(シンボル)」であるということを君達が悟れば、そこで初めてより多くのものが見え始め、君達は理解に近づくことになる。理解から遠ざかるのではない。キリスト教的な意味でいう個人的な一人の神がいるわけではないが、それでも君達が在るもの総ての一部に接することができるのは事実だ。その部分は他の全てに優先して、まず君だけにぴったりと波長を合わせている。

 いいかな、この点において、個人的な神はいる。そういう言葉(表現)を君達が使うのであれば、ということだが。在るもの総てには、個々の意識一つ一つに方向を定め、そのそれぞれに焦点を合わせている部分がある。在るもの総ての一部はあらゆる意識の内部に存在する。その意識の一部なのだ。それ故、一つ一つの意識はどれも慈(いつく)しまれ、護(まも)られているわけだ。そこには自動性の電磁的な繋がりが存在する。

 在るもの総ての一部は、例えば、君の抱えている最も些細(ささい)な問題にも最も重大な問題にも即座に気づく。君だけを対象にしてだ(ひとりひとりに対して百パーセント注意が向けられているということ)。この部分、総合的な意識(在るもの総て)のこの部分こそが君の中で個性を備えている部分だ。

 さて、人格を備えた神という概念に喩(たと)えられるものさえあるが、神学者達の使っているような意味には殆ど当てはまらない。一般的に思い描かれているような神の人格は、これもまた、人間が自らの心理に関する僅(わず)かな知識に基づいて作った単次元の概念だ。

 前文明(現在でいう「文明」が発達する以前)の古い時代でも、それよりまだ真実に近い概念がたくさんあった。実際に私が(すでに)言ったように、君達が「神」と考えたがるものは基本的に、何よりもまず「無限のエネルギー形態an infinite energy gestalt」、あるいは「ピラミッド意識pyramid consciousness」だ。それは自分自身が、例えば、君、ジョーゼフであること(ジョーゼフとして存在している自分)を知っている。また、君には未来や過去の自分に見える存在としての自分自身も心得ている(在るもの総て自身が時空を超えてひとつひとつの「自己」としての存在を知覚している)

 それは最も小さい種(たね)として生きている自分を(も)知っている。(芽を出して)育っていくものとしても育っていかないものとしてもだ(後者は見落とされがちなので重要)。この時点で、この形態の「人格」は理解の範囲を超えている。厳しさといたわりの両方を備えているのだ。「正義」とは人間的な言葉であり、常に「罰」の意味合いを(言外に)帯びているが、罰と神の概念とは何の関係もない。(次のページへ続く)