自分を解き放つ
ジョーゼフ、君はこれから多くの点で、自分はもっと好きなようにやっていいのだということを学んでいくだろう。
雁字搦(がんじがら)めになってはいけない。締めつけてしまっては拡がることはできないし、そこには創造性などまず、ないからだ。君がこれから毎日散歩しようとしているのは素晴らしいアイディアだが、それだけではない。もし、君が過去においてもずっと散歩を続けていたとしたら、君が病気になることはなかった可能性が充分にある。それは、野外には、自ずから回復する、自らを一新するという物理的な性質があるからだ。
単なる提案としての話だが、私だったら、これからの季節は屋外をできる限り利用することだろう。君達二人のためにだ。
君は根っからの規律正しい人間だが、その範囲内で君がこれからしなくてはいけないのは、自分に対してもっと自然な自発性を許すということだ。そうすれば、いろいろな点で、その見返りは十二分にあると気づくだろう。また、その見返りは君の仕事に反映されるだろう。ここで一言、陳腐な言い回しなのを覚悟の上で昔からの真理を付け加えなくてはいけない。「恐れだけが君を引き留められる」。これは「いずれの方向にも」だ。
怖がることから君自身を解放できれば、そこから見込める収穫は大いにある。もっと思うがままに旅をしてみるべきだ。旅は物理的な形で拡がっていくことであり、その拡がりが見過ごされないようにするべきだ。怖がれば安全を守ろうとする。怖がれば(何かが起きないかと)待ち受けることになる。老人の身体的な徴候というものは、恐れが肉体組織の中で具現化したものだ。君にしても誰にしても、死ぬ時まで丈夫(じょうぶ)で溌剌(はつらつ)としていてはいけない理由などはない。君とルバートは多くを学んだし、さらに学んでいくだろう。
内側の自己は行動することの中で自らの存在を知る。その自己には、現実界の中に確固とした足場がある。(それに対し、外側の)自我は物質的な「現場」で自らの役割を演じ、責任を果たし、思うままにそれなりの喜びや楽しさを知ることができる。もっとも、ここで言うような内側の自己は活動の中で蘇生されなければならない。
その蘇生(そせい)活動の一端が君達にとっての四季であり、君達の宇宙の物理的な性質だ。立所(たちどころ)に蘇生する、その活動は自我(エゴ)にさえも、その現実界への繋がりを自ずから感じさせる。自我もその現実界の一部なのだ。
ジョーゼフ、君個人に備わっている潜在能力は卓越したものだ。過去世の知識はどんな存在にとっても極めて役立つことだろう。それは学んだ教訓や勝ち取った成功の知識だけではなく、やり残した問題、解決した問題の知識もだ。君達が道徳問題とでも呼ぶものに関する話も、まだまだ出てくることになるだろうが、こうした議論は常に現実の有り様に結びつけて(実際起こったことに即して)なされるだろう。
ウォーターストリートは、実際に行ってみると、結構、車がひっきりなしに走っています。長い通りなので東西に分けられており、バッツ夫妻は「西ウォーターストリート」の方に住んでいました。バッツ夫妻の建物から見ると、道を挟んで向かい側の家のすぐ裏がチェマング川という位置関係になります。
技術の進歩というのはすごいもので、今日ではバッツ夫妻の住んでいた建物を Google マップで確認できます。