4. マイクル・クライトン
1970 年代初め、自分の中を見つめようとした人の中には作家の(故)マイクル・クライトンもいました。「ジュラシック・パーク」、“ER”など数々の映画、ドラマの脚本や小説で知られるクライトンには“Travels”(邦題「インナー・トラヴェルズ」)という著作があります。邦題からもわかるように、これは彼の内面の模索、自己探求の旅を中心的なテーマにした自伝的エッセイです。エリートだった彼にもエリートなりの悩みがあり、おもしろいことに、当時の多くの若者たちと同じように自分の内面を見つめる旅に出ます。以下にご紹介するのは 1973 年の話です(以下、「中略」以外、カッコ内は日本語版のまま)。
いまわたしは三十歳だった。ハーヴァード大学を卒業し、ケンブリッジ大学で教え、大ピラミッドに上り、医学博士の学位を取り、結婚し離婚し、ソーク研究所の学位取得研究員になり、ベストセラー小説を二冊出版し、そしていま映画を作った。突然、目標が種切れになってしまった。わたしは自分の生活の内側で座礁してしまったのだ。だから急に汗をかいたのだった。これから何をすればいいのだろう?
何も思いつかなかった。
(中略)
それでもやはり、自分の生活を捨ててインドへ出掛ける気はなかった。何をしたかというと、わたしは本を読んだ。ボダイ・ツリーという名の、秘儀的分野を専門にする書店があった。わたしはしょっちゅうそこへ行き、じきに、クリシュナムルティとヨガナンダ(ともに現代インドの神秘家)の名前が、ワトソンとクリック(DNA の共同研究者)、あるいはヒューベルとウィーゼル(視覚の神経生理学的研究の共同研究者)と同じぐらい、わたしには親しいものになった。そしてわたしはしばしばマウイ島へ出掛けた。
(中略)当時マウイ島に雑踏はなかった。ウォルト・ディズニーとアルベルト・シュペーア(ナチス・ドイツの政治家、建築家)が設計したかのような、ああいう怪物じみたホテルは建ってなかった。ラハイナは、ヒッピーたちが暮らす、さびれて眠たげな小さな町だった。書店には“霊的な”書物が揃っていた。それまでほとんどお目にかかったことのない本ばかりだった。わたしはそこで、セス叢書(そうしょ)を読み、カルロス・カスタネダ(1931 ~。ブラジル生まれの文化人類学者)を読み、ケン・ウィルバー(1949 ~。トランスパーソナル心理学の理論家)を読んだ。あらゆる種類の本をそこで初めて読んだ。
上記、最後の段落にある「セス叢書」、原文では “the Seth books” となっているため「叢書」と訳されていますが、特に叢書として発売されていたわけではないので、一般に「セスの本」と言われている一連の本を指すと考えていいでしょう。クライトンのように、セスの本を通過点として経験した人の数は少なくないようです。
以上、セスの本とはどういうものかという話から、著者ロバーツの個人的背景、本の社会的、時代的背景まで、実際の抜粋を挙げながら、ざっとご紹介してきました。
「古いものには価値がない」とか「新しいものの方が優れている」という観念(価値観)を持っている人は多くいますが、そういう人たちでも、「1 + 1 = 2 なんて古い」と言って頻繁に新しい数学体系を作り出すわけにはいきません。ましてや「食事をするなんて古い」、「服を着るなんて古い」などと言うわけにも到底いきません。人間の生き方についても同様で、わたしたちが、たとえば、百年前の人たちと比べて、人とのつきあい方がうまくなっているか、日常生活でのストレスが減っているか、戦争は減っているか、そもそも、百年前の人たちよりもわたしたちは幸せな生活をしているかと考えれば、一世紀分の「進歩」がどの程度のものかわかります。
セスの本は口述されてから 35 年から 50 年ほど経っていますが、21 世紀のわたしたちにも、そのままストレートに通用します。これは、セスの本が基本的に「解説書」だからです。わたしたちを取り巻く世界の仕組みも人間の心理も、時代や国によって大きく変わるものではありません。1960 年代のアメリカでも、2020 年代の日本でも、対人関係、金銭、健康など、人間の抱えた問題は共通しています。そして、そうした問題を解く鍵が、セスの本を読もうと読むまいと、わたしたち自身の中にあることも変わっていません。