個人的現実の本質
セッション 651
マサ 訳
さて、こんばんは。
(「こんばんは、セス」)
では、口述を再開しよう…。年齢に関して君達が抱いている観念は他の全てに関する観念と同様、君達の体験を形作ることになる。そして、君達の集合的観念は君達の文明を形成するだろう。(たとえば)男も女も、君達の社会に広まっている数々の概念を抱え、年を取ることを若いうちから怖れている。青年期が生命、天の恵み、成功を絵に描いたようなものだとするなら、老年期はその逆だと見なされる。すなわち、破綻と衰退の時だ。
この(思考パターンの)一部は、君達の言う「意識的な心」、「無意識的な心」の双方に対する歪んだ観念と関係がある。概して西側社会では、意識的な心というものは成人する頃になって(やっと)独り立ちするものだと見なされている。自己が「無意識」という幼少期のベッドから、鑑識眼ある自覚と分別の段階へ起き上がるというわけだ。区別や相違点を認識することは意識的な頭脳に備わった最大の特性の一つと考えられ、そうした数々の側面は評価される。その一方で、意識にはそれと同じくらい意味のある、同化したり、繋ぎ合わせたり、関連づけたりする特性もあるのだが、それらは見過ごされてしまっている。(それによって)学問の世界でも、そして、多くの全く学問的でも何でもない世界においても、「知性」というものが「批判的な思考能力」のみと同一視されている。だから、分析的であればあるほど、より知的だと見なされることになるのだ。
西側の社会では、成人として過ごす歳月の間、意識は一つの決まった領域における活動と物理的な操作にみっちりと集中させられる。子供の頃から、頭脳は自らの議論的、分割的な特質を他の何にもまして使うよう訓練されるのだ。そして、創造性は、ごく限られた、特定の容認されたルートを通してのみ、流れ出ることが許される。
年を取ってくると ── そして例えば、仕事を退いてしまうと ──、人は、ちょうど、そのタイプの集中方法におけるフォーカスが、もはや直ちには定まらなくなってくる。実際のところ、頭脳はもっと自分本来の姿になり、もっと自由に能力を使えるようになり、限定されていた領域から脇道へ逸(そ)れても構わず、同化(融合)したり、認めたり、創造したりできるようになるのだ。
しかし、正にこの時、人はそういった脇道への逸脱がわずかでも見られないか用心しろと言われる。その種の行為は知能が低下している兆候だと見なすよう告げられてしまうのだ。そこで、集合的観念に従っている(社会通念を受け入れている)人々は、自分の中にある自分自身のイメージが変わってしまったことに気づく。そして、自分は自らの年齢そのものに、あるいは、時間の中に存在すること(自体)に裏切られたのではないかと不安に駆られる。彼等は自分自身を「残り滓(かす)」だと見なしてしまう。自分が、「もっとよかった自分」の面影をかすかに残す(ただの)「痕跡」に見えてしまうのだ。そして、自分自身が抱く価値判断の枠組みの中で、彼等は、自分が時間の中に存在し続けてきたという事実そのものを通して自分自身を責めることになる。(そうなってしまえば)自分の身体に備わった完全性を信頼していたことがあるとしても、そんな信頼は、もはやない。そして、彼等は他の連中が書いた台本どおりのドラマをそっくり演じ始めてしまうのだ ── もっとも、それに同意したのは彼等自身なのだが。