夢、「進化」、価値の達成 第2巻
セッション 914、1980/05/07
マサ 訳
人間には自分が前進しているという実感が必要だが、それが科学技術の前進だけでは比較的浅いレベルでしか意味をなさない。その前進を後ろから支えるように気持ちの面での理解も深まっていかなくてはならないのだ。それは、人間が自分自身との一体感、自分以外の自然界との一体感を高めていくことだ。
高い知的技量があり、論証能力には異論の余地がないものの、例えば、感情的あるいは精神的な面での成長がすっぽりと欠けている人々がいる。しかし、君達の「査定基準」に合わせる限り、その欠けた点は大方、目に留まることのないままで、当然、こうした人々が発育障害だと見なされるようなことはない。私は常に直感的な能力と理性的な能力のバランスに関連して話を進めていこうと思う。また、この両者の「縁を結ぶ」方向へと君達を導いていけたらと願っている。両者が一緒になると、君達の世界では確かに全く新しい能力に見えるものを引き出すことができるからだ。それは、それぞれに備わった最上の要素を組み合わせながらも双方が計り知れぬほど高められるやり方でだ。
また、君達の確立した分野での知識に関する限り、君達が現在抱いている観念は知性がフルに、かつ自由に活動するのを制限しているということも強調したい。これは、科学があまりに多くの禁則を設け、自由に知的な問いかけのできる範囲を限定しているためだ。ただ、私は、知性よりも気持ちに頼ること、あるいは逆に、気持ちよりも知性に頼ることを奨励しているわけではない。
何はともあれ、仲間を評価する際、君達は感情の面で達成したことよりも知的な面で達成したことの方に重点を置く。中には、感情面で達成したこととは何かと問う者さえいるだろうが、それは精神的にも生物学的にも極めて大事なことだ。感情面での達成度のテストというものが仮にあったとしたら、かなり上位につけるだろうが、社会の指図に従うと、特定の状況下では、おそらく「知恵遅れ」と見なされてしまうであろう人々もいる。もっとも、人類全体は少なくとも感情的な達成に向けての旅に乗り出しているし、知的な「収容能力」の開発にも乗り出している。そして最終的には、この両者が手に手を取って進まなくてはならないのだ。
輝かしい才能のある数学者、科学者、芸術家の場合さえもあるが、どんな分野であっても、天才だと認められた人物が感情面では「能なし」である場合もあり得る。しかし、誰もその人物を発育障害だと見なしたりはしないわけだ。ここで話しているのは、例えば、創造的な人々、またはどんな人の場合でもいいが、突拍子もない行動をとる人間のことではない。感情的な価値を理解する能力が欠如している人間のことだ。