個人的セッション集 第1巻
セッション 560 1970/11/11
マサ 訳
さて、私と君の友人(ロバーツ)に対するコメントを少し。
まず、知ってのとおり、ルバートには卓越した知性がある。しかし、それは彼自身が思っているほど発達しているわけではない。(本当なら)もっと遙かに使いこなせるのだ。現在、彼は「厳密に分析する」特質(分析的な見方)を重要視しているが、それによって(却って)知性の使い方を制限している。
知性に与えてしかるべき自由を与えていない、あるいは自分のために知性をたっぷり働かせることができるはずなのにそれが充分にできていないのだ。彼が自分のことをとりわけ分析的な意味で知的だと思う時はよく、むしろ「合理性」という点を踏まえようとして逆に表面的なやり方で知性を使うことになってしまっている。
君も承知しているように、ルバートには素晴らしい直観的な才能がある。過去における詩作では、その直観的な才能がいささか孤立してしまっていた。(詩作の中で)現れ出てきた真実は「クリエイティブなファンタジー」とみなせるので、額面どおりに受け取ったり、知性に「承認」してもらったりする必要はないわけだ。
彼は常に、自分の中にある、その直観的な部分を「女性的」なものと捉え、知的な能力は「男性的」だと考えていた。だから、彼は「より強いもの(the stronger)」としての知性を拠り所(よりどころ)とした。それは彼自身のバックグラウンドにおいて、男性というものにはより力があるのだと信じていたからだ。
これは若干、彼の(そうした)姿勢に影響を与えた文化的な風潮とも関係している。彼は自分の直観をできるだけ「知的」とされる形で使おうとする。彼の考え方によれば、そうすることで直観が(他の人々に)より受け入れられ、直観に力と持続性が増すということになる。その結果、人々に笑われるようなことはなくなるというのだ。
融通無碍(ゆうずうむげ)で直観的な自己とは、どこまでも創造的であるからこそ決して揺らぐことのないものだ。その点をルバートは理解できていない。その理由の一つは、彼があいにく「女性性」というものを誤解し、その観念とその(直観的な)自己とを同一視したことにある。それ故、その自己は(あくまで)「二番手」(最高のものに一段劣るもの)であり、頼りにならず、(付いていったら)胡散臭い(うさんくさい)裏道へと連れていかれかねないということになるわけだ。ルバートは金(財産)がそのまま社会的な評価や名声を意味すると考えたことはない。(ただ)子供の頃、彼にはきちんとした家庭的あるいは経済的な環境がなかった(ロバーツが2才の時、両親が離婚し、リュウマチ性関節炎を患う母と二人で福祉手当に支えられた生活を送った)。(そのせいもあって)世間から認められ、尊敬される地位を得たいという欲求を放ってはおけない。
そこで彼は自分を「知的な人間」に設定した。それが彼にとっては他人から認められるためのレッテルとなったのだ。しかし、同時にそのレッテルは彼の意識の中でより男性的なイメージを帯びることになった。その理由は前述のとおりだ。
(その一方で)彼は直観的な自己を否定できなかった。そこで、それは「詩作する自己」になった。もっとも、彼の世界で見れば、詩作は「知的」な行為だった。女性的なイメージは、不安定さ、怪しげな脇道へと連れていかれかねない(あてにならない)直観、そして知的な抑制の効かない感情を意味したのだ。