多重人物性
「知られざる」現実界 第1巻
セッション 683 1974/02/18
マサ 訳
「自分」という構造は内的な自己から生じる。それは様々な興味、能力、原動力によって形成され、集中する分野が選ばれる。一人の人間が素晴らしく聡明であり、立派なスポーツマンでもあり、感情的にも精神的にも深い理解力があるとしたら、それは人類の生み出した理想のタイプであるかのように見えるかもしれない。しかし、そんな人間は滅多(めった)にいるものではない。
物理的な存在系(systems of physical existence)の中には、同じ内的自己から 3、4 名の「人物(person)」が生じる多重人物性が確立されているものがある。そこでは、その一人一人が自分の特性を可能な限り発揮している。ただ、その場合、その一人一人に他の人物達の活動がわかっていて、そこに自らも加わるという意識の形態が前提となっている。また、異なる型の集団意識が備わることにもなる。この相互関係がわかるかな?
(「はい」)
意識の進化がそんな形で起こってきた系では、一つの「生涯」における肉体と精神のあらゆる能力が見事に利用される。自分という存在についての曖昧さなどもない。本人は例えば、こんな風に言うことだろう:「自分はジョーであり、ジェーンであり、ジムであり、ボブである」と。性的な特質に関しては数々の身体的なバリエーションがあるので、自分というものにはあらゆるレベルで男性的なものと女性的なものが含まれることになる。こうした全ての蓋然性(がいぜんせい)の「影」は「風変わりなもの」として君達の系に現れる。君達の系に現れているものは悉(ことごと)く、その現れる度合いに拘(かか)わらず、別の系で発達したものだ。
この全てに言えるポイントは、これらの単位(units)が予測不可能であり、意識のあらゆる蓋然性を実現するということだ。限定された人物性(personhood)に基づいた、神なり他の存在なりの概念は如何なるものであっても最終的には役に立たない。動物達、昆虫達、鳥達、魚達、人間、そして人間の作り出した全てのもの ―― 物理的な生活がそうした素晴らしい変化に富んでいるのを見ても君達は別に何とも思わないだろう。しかし、意識自体の性質はそれよりも遙(はる)かに多様であるということを君達は理解しなくてはならない。また、内的な現実界は外的なものと同じように無限であると考える習慣を身に付けなくてはならない。これらの概念だけでも実際に現在の君達の意識を改め、その程度(レベル)を変えることになる。いいかな?現在の「魂」の概念は「原始的」な発想であり、人類という存在が生じてきた現実界なり創造性なりの説明をそこからまともに始めることすらできない。君達は(きっぱりと)多重人物(multipersons)なのだ。同時にいくつもの時代と場所に存在する。君達が一人の人物として同時に存在するのだ。これはその人物達の独立性を否定するものではない。ただ、君達の内的な現実界が彼等の現実界に跨(また)がっており、それが一つの心的な世界の役割を果たしているということだ。その世界の中で彼等(と君達)は成長するわけだ(次のページへ続く)。