病気の発生メカニズム
個人、そして群衆現象の本質
セッション 805 1977/05/16
マサ 訳
(自分に)「価値がない」という気持ちを作り出したのは君達の観念だ。わざわざ自分達と自然とを分けて考え、その自然を信頼しないどころか、自然とは自分達が「立ち向かう」べき相手であるかのように捉えることも、しょっちゅうだ。君達の(欧米の)宗教は人間に魂があることを認めたものの、他の生物には、いかなる魂も認めていない。そして、身体は「自然」へ、魂は「神」へと(それぞれの「担当分野」に)追いやられてしまい、その神は汚れることもなく自らの創造物から離れたところに立っているというわけだ。
(その一方で)君達の科学的な観念によれば、世界全体は偶然、生じたことになる。また、宗教は君達が罪を負っていると言う。身体を信用してはいけない、感覚は人を迷わせかねないものだと。こんな観念の迷路の中で、君達は自分自身の価値や目的に対する感覚を大方、見失ってしまった。(具体的な対象のない)全般化された怖れと疑念が生まれ、人生において思い切ったことを大胆にやってみようという姿勢があまりにも欠けてしまうわけだ。身体は全般化された脅威には反応できない(相手が定まらないのでは対応しようがない)。だから、そうした状況では絶えず緊張した状態に置かれ、その(対象となる)危険を特定しようとする。また、身体は君達を護(まも)るべく対処するようにできている。そのため、大きなストレスを溜め込んでは、数々の機会に特定の疾病や脅威となる状況を「製造」し、耐えきれないほどに大きくなった緊張を解き放とうとするのだ。
読者の多くは、個人的に瞑想をして特定の範囲に意識を集中させた経験があることだろう。それには、いろいろなやり方や流派があるが、結果的に極めて暗示的な精神状態が生じ、精神的、知的、あるいは物質的な目標をめざすことになる。目標なしに瞑想するのは不可能だ。目標なしに瞑想しようとしたら、それ自体が目標になってしまう。あいにく、公的な健康指導プログラムの多くや様々なメディアを通じたコマーシャルは最も嘆かわしい類の「大衆瞑想」(集団暗示)を君達に与えている。私が言っているのは、様々な疾病に見られる特定の症候を示し、「そうした症候を念頭に置いて」身体を調べてみるよう促すものだ。それから、これもまた具合の悪いことに、目につくような症状の出ない特定の疾病を挙げ、すこぶる元気だと感じていても、こんなに悲惨なことが起こっているかもしれないのだと警告する類の論法だ。そこではよく、宗教的、科学的、文化的な観念によって促進された全般的な怖れが疾病の青写真(疾病が進行してゆくプラン)として提示される。それに従えば特定のものに集中できて、こう言えるわけだ。「そりゃあ、気が抜けたようになったり、慌てふためいたり、不安を感じたりするのも当然ですよ。わたしは、これこれの病気なんですから」(次のページへ続く)