Seth Network Japan
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現実の変え方について

個人的現実の本質
セッション 615 1972/09/18

マサ 訳

 意識は、放っておかれれば(他からの影響がなければ)一つのまとまりとして活動する。もっとも、まとまりといっても絶えず変化しているわけだが。意識的な頭脳は(自己の)内側と外側、両方からの声に耳を傾けながら観念を形作ることができる。自己が物質的、非物質的な源泉から得た数々の知識と結びつく観念だ。そうやって観念が形作られると、いろいろな活動をしていく中で、特に努力をしなくとも自然かつ簡単に観念をチェックすることになる。しかし、一度(ひとたび)、その意識的な頭脳が、いくつもの矛盾した観念を受け入れてきたという(ことに気づいた)場合は、それらを整理するために思い切った企てが必要だ。

 ここで思い起こしておくべきなのは、誤った観念でさえも、物理的なデータの点から見れば、正しいかのように見えるということだ。君達が「外の世界」で経験することは、そうした観念が物質化されたものだからだ。それ故、君達は自分の観念の「原材料」と取り組まなくてはいけない。たとえ、特定の観念が、感覚器官からのデータによれば、明らかに真実だと判断される場合でもだ。続いて、自分の体験なり、その一部を変えるには、自分の観念を変えなければならない。君達は、これまでもずっと自分の現実界を形作り続けてきたわけだから、その(観念を変えた)結果も自然に付いてくるだろう。

 (休止)自分の観念を変えることができると確信していなくてはならないし、やってみようという意志がなくてはならない。自分の人生は多次元の絵画であると想像してごらん。(自分を)制限する観念は、その絵画を台無しにしている「汚(きたな)い色」だ。そして、画家がパレットを替えるのと同じように、その観念を替えるわけだ。

 画家が、自分の使う色と自分自身を同一視したりすることはない。自分が色を選び、その色を自分が筆で塗ることは承知している。それと同じように、君達は自分の現実界を自分の観念で描くわけだ。君達は自分の観念ではないし、ましてや、自分の想念でもない。君達は、それら(観念や想念)を経験する自己だ。画家は、一日の終わりに自分の手が絵の具で汚れているのに気づいたら、その汚れを簡単に洗い落とすことができる。絵の具の性質はわかっているのだ。君達が、制限的な想念は自分の一部であり、それ故、永遠にぴったりとくっついているのだと思ったら、それを洗い落とそうなどとは思わないだろう。その代わり、頭がおかしくなった画家のように振舞って、こんな風に言うのではないだろうか。「絵の具はわたしの一部です。わたしの指は、その絵の具達に汚されてしまいました。わたしは、それに対して何もできないのです」

 自分の抱えている数々の想念に自然な流れで気がつくことと、その想念を調べてみることは、矛盾しているように見えるかもしれないが、両者に矛盾はない。心の自然な動きに従って生きるには、盲目的である必要はない。やってくるデータを一つ一つ、事実として見境(みさかい)なく自分のものにしようとしていたら、それは自然に湧き出た行動ではないのだ。