個人、そして群衆現象の本質
セッション 835
マサ 訳
こんばんは。
(こんばんは、セス。)
前回(第 834 回のセッションで)話したとおり、第6章だ。
(自分に対する)おまじないの言葉がある。特に、今世紀(20 世紀)になってから、大切に何度も繰り返して使われてきた暗示の言葉で、こういうものだ。「毎日、あらゆる面でわたしはどんどん良くなっている」
これは少々、楽天的すぎるし、喜ばしいものだが(結局は)ナンセンスに聞こえるかもしれない。それでも、この暗示は何百万という人々にとって、ある程度の効果を発揮してきた。(もちろん)万能薬などではない。(たとえば)自分自身の本質は基本的に信頼できないものだと信じている人々には役立たなかった。しかし、これは、他愛のない言葉などでは全くない。この暗示は、周りに新しい観念が寄り集まってくる枠組みとして働くかもしれないし、実際、そう働いてきたからだ。
もっとも、君達の社会では、よく、これとは逆の暗示が極めて日常習慣的に使われている。こうだ。「毎日、あらゆる面で、わたしはどんどん悪くなっている。そして、世界も」。君達は、災厄を引き起こすような瞑想をし、個人的、集団的な悲惨事を呼び寄せるような観念を抱く(ことがある)ということだ。それらは通常、慣習的に受け入れられた「育ちのいい」格好をしているので、その裏が隠れてしまっている。(休止)例えば、特定の戦闘や戦争で何千人もの人々が命を落とすかもしれない。その人々の死は殆ど当然のこととして受け入れられてしまう。彼等が戦争の犠牲者であることに疑問を挟む余地はないというわけだ。彼等が観念の犠牲者であるという点に思い至る者など、まず、いない。それは、銃も爆弾も戦闘も、皆、それはもう「現実的」だからだ。
敵(が誰なのか)は明確で、その敵の狙いは「悪」だということになる。戦争は基本的に皆、大量自殺の例を示すものだ。戦闘用の装備を全て調(ととの)え、闘いに臨むわけだが、それは集団的な暗示を通して遂行される。遂行するのは国家最大の資源である人間であり、その人間達は、この世界が安全な場所などではないと確信している。そして、自己とは信頼できないものであり、よその人間はいつでも自分達に敵意を抱いていると信じて疑わないのだ。君達は、人間というものが、そもそも、好戦的な生き物なのだと、それが当然のことであるかのように捉えているのだ。「自分達が破壊される前に敵国を出し抜かなくてはならない」などといった類の偏執狂的な性癖は、国家主義的な旗の下にわんさと隠れている。