(僕が願っていたとおり、ジョン・ブラッドリーは 12 番通りという情報について何も言わなかった。ジェーンも彼にそれを聞かなかった。休憩の間、僕達はジョンの会社、サール・ドラッグについて話し合った。同社は経営上の問題から財政難が深刻化し、苦境に喘(あえ)いでいた。セスは、ジョンが居合わせた時には、よく、それに関する話をしてくれたが、今日に至るまで、彼の話した内容は的確だった。
休憩が終わるころ、僕達はサール社が市場に投入しようとしている新薬の話をしていた。9 時 29 分、ジェーンは目を閉じたまま、このうえなく活発な、きびきびとした調子で口述を再開した)
君達の話は実に面白いと思う。私自身には、そういった類の問題はないわけだから、ここではコメントを控えておこう。
さて、これらの蓋然性、すなわち、起こるかもしれないし、起こらないかもしれない、これらの出来事は極めて興味深い。「我々1」と「時間1」を考えてみよう。原則として、「我々2」は「我々1」の未来に何が起こり得るのか、実際に眺めることができる。しかし、「我々2」に見えるのは蓋然性であり、それらの蓋然性のうち、あるものは実際「我々1」に起こり、あるものは起こらない。繰り返しになるが、このポイントが、私達の友人、プリーストリーとダンには理解できていない。
プリーストリーの言ったことは、この点でも、ある程度、正しい。これらの蓋然性はどこかで起こるわけだが、プリーストリーもダンも想像したことすらない自己に対して起こるのだ。それは、どんな人間にも(自分と)同時に存在する一つの自己であり、かつ、その人間の一部でもある。しかし、その人間は、君達の暮らす、その体系の中にいる限り、その自己を知るに至ることは決してないのだ。
いつか、数学的な概念を使って、これを説明しようと思うが、今は平易な日常語でやってみよう。想念は、どれも自身のエネルギーでできており、エネルギーの範囲内で、想念には影響力がある。もっとも、これは、君達の、くたびれ果てた、古臭い「因果の法則」の話をしているわけではない。いかなる行動も他のあらゆる行動に変化を与える。そして、いかなる蓋然性も、それが君達自身の体系内で起ころうと起こるまいと、一つの現実である、という話はすでにした。ここでは、その話をもっと進めてみようと思う。
君達の体系以外の中には、現実とは「瞬間」が一列に並んでいるのではなく、特定の瞬間の中に存在する、行動のあらゆる蓋然性の中へ入り込む体験を意味するもの(体系)もある。それ故、継続性とは、自己にとっての意味であり、一連の瞬間という意味であるわけではない。ある(存在する)のは、むしろ、一連の自己達であり ──(以下、途中に挿入されたバッツの注釈。次のページへ)