こうして、神は「男性」となった。そして、本当ならば自然や女性原理という側面に結び付けられるであろうはずの「愛」や「献身」は、人が性に対して感じる、あらゆる自然な魅力からは「もぎ取られて」しまったのだ。こういう風に君達の意識状態を反映した形で、宗教は愛を手懐(てなず)け、支配する目的にその力を使えるようになった。そして、愛と献身は国に対するものとなったわけだ。
男一人の愛と献身は政治的な利益であり、熱情は国庫に匹敵するほど重要なものだ。それは(熱情があってこそ)多くの狂信者達が大義のためには金銭抜きで働くのと同じように、国家は自らの軍人達が確実に身を挺して働いてくれることを前提にできたのだから。
(長い休止)少し待ってくれ…。(9 時 56 分に 1 分間の休止)
生来(しょうらい)、一人でいるのが好きな人々もいる。彼等は孤独な人生を好み、それに満足している。しかし、殆どの人は、長続きのする、密な人間関係を必要とする。この人間関係が、心理的にも、社会的にも、人間としての成長、理解、発展への枠組みを与えてくれるのだ。強く長い人間関係を他人と築くこともなしに、一人で大空に向かって「わたしはみんなを愛しています」と叫ぶのはお安いことだ。「全人類にあまねく平等な愛を」と訴えるのも易しい。しかし、愛は、それ自体、君達の活動レベルに応じて、直接的な体験に基づいた理解を必要とするものだ。知らない人を愛することはできない。まあ、愛というものの定義に水を加えて、それ自体、意味のないくらいにまで薄めてしまうのなら、話は別だが。
誰かを愛するには、その相手が君達自身や他の人達とは、どう違うのかということを認めなくてはならない。そして、相手のことを思い続けなくてはならない。幾分、愛が一種の瞑想になるくらいにだ。それは、自分とは別の個人に焦点を合わせた、愛するフォーカスだ。そういう種類の愛を一度、経験すれば、君達はそれを他の面に置き換えて捉えられるようになる。愛は、それ自体、拡がって伸びてゆくので(愛する相手以外の)他の人々も愛に照らされて見えるのだ。
愛には持ち前の創造性と旺盛な知識欲がある。つまり、愛する相手の様々な側面を次から次へと知りたくなるということだ。普通だったら欠点に見える特徴でさえも、それなりに情愛のこもった意味合いを帯びてくる。そうした特徴が、そのまま受け入れられ、目に入ったところで何がどうというわけでもなくなってしまう。愛する者の特徴だからという理由で、短所に見えることでさえも帳消しにされ、短所でなくなってしまうのだ。愛される者は他の全てを凌駕するというわけだ。