Seth Network Japan
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 知性というものが適切に使われる場合、知性は目標を念頭に置き、それに向けて自動的に身体を動かす。そして、自らは知ることのない、他のレベルのコミュニケーションを自動的に呼び起こし、全ての力が一体となって目的達成に向けて働く。1つの的(まと)を仮の目標としてみよう。知性を適切に使う時、知性はその的をイメージし、イメージの上で、その的に到達する。それが物理的な的である場合、人は(弓と)矢を手に持って立ち、的のど真ん中に命中させることだけを考え、気持ちはそれに集中し、場合によっては、適切な位置に足を置くなど、習得した動作を行う。あとは、身体に備わった魔法的な性質が片付けてくれる。

 しかし、知性が不適切に使われた場合、知性は、何やら、こうした内部の過程を知ったり、自ら統率したりすることを要求されているかのように感じてしまうことになる。この誤った観念体系と否定的な姿勢が俗に言う「合理的な理性」に繋(つな)がっている場合、我々の「射手」は的を見ることは見るが、注意をその的に集中させるかわりに、自分の矢がはずれる、ありとあらゆる可能性の方に集中してしまう。すなわち、左や右に落ちてしまうかもしれない、遠くに飛びすぎたり近すぎたりしてしまうかもしれない、はたまた、空中で折れてしまうかもしれないとか、(射る前に)手から落ちてしまうかもしれないとか、その他、諸々(もろもろ)の可能性が彼(射手)の意志を欺くのだ。

 注意の対象が完全に的からはずれてしまったのは言うまでもない。彼は現在の出来事に、本来の意図たるべきイメージではなく、自ら怖れているイメージの方を投影してしまったわけだ。心に描いたイメージと自分の想念に応える形で、彼の身体は自らの混乱を映し出した動作を行うことになる。

 言い換えるなら、最善の結果を得るには、魔法的なアプローチと、いわゆる合理的なアプローチを一定のやり方で組み合わせることだ。