合理的な思考そして目標の達成
セッション1980/08/20
マサ 訳
(ささやき声で)こんばんは。
(「こんばんは、セス」)
我々の議論の続きだ。
科学的な枠組みを基準とすることは「合理的な思考」という言葉と同一視されるようになった。他のあらゆる思考傾向は即「非合理的」であるかのように思われるほどにだ。その点で、思考は専門化されすぎ、先入観に大きく染まり、硬直した。
さて、思考にはスタイル(各個人の流儀)というものがある。人間は一人一人、自分なりの思考スタイルを持っている。推測の混じり方にしても、変化に富んだ独特の個人的なスタイル(パターン)がある(たとえば、自分が「思い込んでいること」を「事実」だと思う人もいる)。空想もある。(休止)観念を中心にした形で主観的、客観的なデータを使う方法も人それぞれだ。しかし、科学は思考の世界をあまりにも支配してしまったので、かつては至って「合理的」と見なされていた多くの意味合いや領域がとても「まともではない」とされるまでになってしまった。科学は自分が証明できるものに固執しようとするのだ。
あいにく、科学には一つの世界観を作り上げる傾向がある。そうなると、それは特定の素材だけに基づいたものになってしまう。辿(たど)り着くのは、生物学、心理学、物理学、数学等々(などなど)、バラバラの学問分野だ。それぞれには独自の事実の集まりがあって、それが(よそ者に対する)邪推の眼でガードされている(外からの介入を許さない)。そして、それぞれが独自の世界観を提示する。生物学を通して見た世界、物理学の目を通して見た現実、といった具合だ。
そうした情報をすべて結びつけたり、一つの学問の事実群をよそに応用したりする独立した(専門の)分野はない。それ故、全般的に、「合理的な思考」というブランドを掲げる科学は、現実について、示唆に富み、均衡のとれた、仮説的かつ包括的な概念を示すことができないのだ。(それによって)個々の人間は、ある重大な意味で、実質的に孤立してしまったように見えることになる。例えば、仮に、遺伝的な継承と、肉体の(強調して)「機構」を動かすための不特定のエネルギーが一定量あったとした場合にだ(意図的に科学で使われる用語や表現を使っている)。意志、目的、あるいは願望といったものはその図式に当てはまらないわけだ。
もう一度言うが、その(前述の状況下にある)個人は自分自身の環境の中でも部外者であり、殆ど宇宙人のようなものだ。彼(個人)はその環境で生き延びるために苦闘しなくてはならない。それは自分のすぐ周りにある環境から及ぼされる「薄情な」影響力に対してだけではない。遺伝学的な決定論に対してもだ。彼は自分自身の肉体とも闘わなくてはいけない。体内には数々の欠陥があり、身体はその影響を受けやすいのだと極端に強調するのだ。病気とも闘わなくてはならない。また、言わば、内蔵された時限爆弾に対しても闘わねばならない。それは予告もなく(自分の)消滅の時が来ることだ。自然というものに備わっている数々の協力的な力を科学は強調しない。科学は区別、細分化、分類を尊ぶが、概して、結びつける力は全く目に入らない。そうした数々の力はもちろん全て本物なのにだ。それ故、私が「本来的な人間は魔法的な人間でもある」と言えば、その概念さえも、私が意図しているよりも、もっと孤立した(限定された)意味に置き換えてしまいやすい。(次のページへ続く)