Seth Network Japan
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感情の元を探る

個人的現実の本質
セッション 642

マサ 訳

 例えば、気が滅入る場合、最も強い、全般的な原因の一つは、外から強(し)いられた(と当人は考えている)状況に直面したり、感情的な意味で大きな出来事を前にして、内からそれに圧倒されてしまいそうになったりして、意識を備えた自分の頭には何の力もないと思い込んでしまうことだ。

 心理学、宗教、科学のいずれも、何らかの形で、この混乱をさらに大きくした。意識的な理性から、その統率的な資質をはぎ取ってしまったり、理性を自己にとっての「継子(ままこ)」と捉えたりしたためだ(休止)。(いわゆる)“ポジティブ・シンキング”の流派は、この状況を救済しようとするものだが、却(かえ)って余計に悪化させてしまうこともよくある。それは、自分が抱いていられたらいいと思う観念を押しつけられたところで、その時、混乱状態にある人々には、そんな観念など抱けないからだ。

 こうした哲学の多くでは、“ネガティブ”な想念や感情を抱かぬようにと考えることで、君達は縮こまってしまう。どんな場合でも、君達の感情的な体験や行動への糸口は君達の観念体系の中にある。(そうした糸口の中には)はっきりとわかるものとそうでないものがあるが、それらは全て、意識的なレベルで手の届くところにあるのだ。君達が自分のことを、大した取り柄(とりえ)もなく、他人よりも劣っていて罪深い人間だと信じているとしたら、自分の個人的な背景と、そうした観念を受け入れた(心理的な)枠組みに応じて、いくつかの形で反応することだろう。(たとえば)攻撃的な感情に怯えるかもしれない。自分よりもずっと力のある者達が報復してくる(ように思える)かもしれないからだ。また、こうした想念が全て間違っていると信じる場合は、それらを抑え込んで、余計に罪の意識を感じることになるだろう。それが(さらに)自分自身に対する攻撃性を産み出し、自分には価値がないという感覚を一層、深めることになるのだ。

 (9 時 34 分)さて、そんな状況にある君達が本を読んだとして、そこに、「『善』をじっくりと見つめ、いらいらした時には自分の想念をすぐさま愛と光に変えなさい」などと説かれていようものなら、君達が難儀するのは目に見えている。そうした行為を実践したところで、自分の自然な感情を余計に怖れるようになるのが関の山(せきのやま)だ。それは(そもそも)なぜ、そういった気持ちを感じるのかということを、実践前と較べて、多少なりとも、よく理解できるようになるわけではないからだ。せいぜい、そうした気持ちをより巧妙に隠せるようになるだけで、状況によっては、ひょっとしたら、病気になるかもしれないし、すでになっている可能性もある。こうした場合、「良い自分」であろうと頑張れば頑張るほど、自分自身の中で劣等感が増してくることになってしまうのだ。

 (自分に尋ねてごらん。)自分で自分のことをどう思っているのか?自分の日常生活、自分の身体、また、自分と他の人々との関係をどう考えているのか?こうした質問を自分に向けてごらん。そして、その答えを書き出すなり、声に出してレコーダーに録音するなりしてみるんだ。もっとも(その際)、何とか客観視してみるように。(次のページへ続く)