Seth Network Japan
Seth Network Japan

愛とその周辺

精神の本質。その人間的表現
セッション 774

マサ 訳

 性行為を悪いことだとか、おぞましいとか、低俗なものだとか表立って言ったり、隠そうとしたり、何よりもまず「獣染(けだものじ)みた」ことであるかのようなふりをしたりする時、君達は性行為のことで頭がいっぱいだ。また、性行為の長所を市場の売り文句のように大袈裟(おおげさ)に掲げる場合も、やっぱり、君達は性行為に憑(と)り付かれている。性行為の表現に関して窮屈(きゅうくつ)で非現実的な禁則を設けたり、実際の行為に対して、これも非現実的な規範を定め、その規範に従うことを普通の人に求めたりする場合も、君達は頭から性行為が離れないのだ。

 それから、例えば、異性と知り合っても相手とベッドを共にするまでに至らなければ不自然だと感じてしまう若者達がいるのは、お仕着せの無節操から来ているが、そうした節操のなさは「性的な自由」のうちに入らない。

 相手を愛する気持ち、相手に夢中になる気持ちと性的な行動とを分けて捉えるところから、性行動に対する観念のレールが敷かれる。そうやって中心のずれてしまった忠誠心や愛を君達に求めたり、君達から得たりするのは、教会にとっても、国家にとっても、造作(ぞうさ)ないことだ。そして、君達の許(もと)に残るのは、奥底にある意味を抜き取られた、一つの性の表現だけというわけだ。

 私は、ここで、愛情や献身的な想いといった情(じょう)を伴わない性行為は、いかなる場合でも「間違っている」とか、無意味であるとか、または安っぽいなどと言っているわけではない。しかし、一定の歳月に亘(わた)って、性の表現は心が示す好き嫌いに従うだろう。その際、その好みが性の表現に彩(いろど)りを添えるのだ。その彩りの度合いに応じて言えるのは、自分の嫌いな相手、自分が見下している相手に対して性的な欲求を感じたら、それは「不自然」だということだ。君達の種(しゅ。「ヒト」、人類)にしても、他の動物にしても、(本来の)自然な生活の中には、性的な観念としての「支配」や「服従」が入り込む余地はない。繰り返しになるが、君達は自分の観念に沿うように動物の行動を解釈している。

 支配と服従が宗教的な書物でよく使われた時代は、愛や献身的な気持ちが性とは分かたれていた。この両者は宗教的な洞察と体験によってのみ一体となった。それは神の愛のレベルに達して初めて、性は正当化に値するものであって、それ以下は全て、犬猫同然とされていたからだ。支配や服従という言葉は(実際のところ)そうではなくて、むしろ、意識内の領域や意識の発達に関わっている。先に述べたような数々の解釈によって、君達は際立った路線に意識の進路を取った。その路線は、ある程度、自然を支配することに意を注ぐもので、君達はその本質を「男性的」だと考えた。そうなると、女性的な原理は大地を始めとして、君達が一つの種として支配力を及ぼしたいと望む、地上に生きる、あらゆる要素に結び付けられた。 (次のページへ続く)