魔法的アプローチ
セッション 80/09/10
マサ 訳
君達の文化における教育は(皮肉っぽくユーモアを込めて強調した口調で)“玉石混淆(ぎょくせきこんこう)”だ。また、教育(学識)は学校だけではなく、新聞やテレビ、雑誌や本、芸術、そして、文化自体のフィードバックからも得られるものだ。ここでの話に関して言えば、教育には概して二つの種類がある。一つは子供達に自然界との関わり方を教えようとするもの、もう一つは、子供達に文化的な世界との関わり方を教えようとするものだ。もちろん、この二つは、普通、結び付いているので分けて考えることはできない。
ただ、君達の教育体制は、それが掲げる理想にも拘わらず、概して、子供達一人一人の自然な気質や性向を、結局のところ(休止)“窒息”させてしまうことになった。そして、逆に文化的な組織化の方を強調し過ぎてしまったのだ。その結果、子供にとっては、自分自身の自然な性質よりも文化(社会的な規範)に従うことの方が大事になってしまった。自分本来のやり方で自然に関わろうとする(「持ち前の自然な性質に従おうとする」という解釈も可)と嫌な顔をされるので、教育によって能力が伸ばされるどころか、阻害されてしまうわけだ。こうなると、教育はしばしば、自然人(本来的な人間)の性分には合わないことになる。
(9 時 12 分)これは、君達の(教育)体制ではうまくやっていけない子供達がいるという意味ではない。(休止)また、子供達には教育など必要ないとか、訓練や指示などは子供達のためにならないとか言っているわけでもない。ただ、子供達は興味があるテーマや疑問に対しては何時間もぶっ通しで集中する(できる)ものだ。そうした探求の可能性が(教育体制のせいで)頻繁に閉ざされてしまい、結果的に彼等の自然な集中力が被害を被ることになってしまうわけだ。
君達(バッツ夫妻)は今ちょうど(そうした教育によって築かれた)頭の中の知識を“取り壊して”いる。そして、正にその取り壊しの過程(自体)が(強調した言い方で)実にいい勉強になることを発見しているところだ。自分自身の中にある自然な知識に次々と出会っているのだ。