セザンヌの本
ポール・セザンヌの世界観
(第1章「多次元のクリスマスプレゼント。リクエストにお応え」より)
マサ 訳
(以下、すべてロバーツの文章)
「クリスマスに何が欲しい?」と夫のロブにたずねると、彼はこう言いました。
「画家のポール・セザンヌの本」。
わたしたちは窓の前に置いた丸い木のテーブルに向かってすわっていました。わたしは窓の外の山々をじっと見つめます。(ロブの答えは)見当がついてしかるべきところでした。誕生日や記念日にしろ、祭日にしろ、ロブはいつだって美術の本や絵の道具がほしいと言うんです。ですから、うちではよくある状況でした。わたしはニヤリと笑って「OK」と言い、たばこをぼうっと吸いながら、クリスマスまであと 20 日くらいしかないから早めに美術専門店に行った方がいいだろうと考えていました。その時には、自分がその本を「産み出す」羽目になるなどと告げる予兆は何もなかったのです。
「いいヤツ(本)じゃないとダメだよ」。わざと厳しい顔をして言うロブに、わたしは応えました。
「ええ?じゃあ、難しくなるわねえ」。
ロブは芸術家ですが、わたしは芸術にしろセザンヌにしろ、彼の言う「いいヤツ」がどんなものかわかるほど知っているわけではありません。ただ、今は亡きセザンヌの本が他のプレゼントの中から出てきたら、すごいだろうなと考え、その光景が目に浮かびました。セザンヌの頭にひらめいた巨大なコーヒーテーブルの作品が、そのままクリスマスツリーの隣に現れます。わたしは勝ちほこったように言うんです。「これで充分『いいヤツ』?」ロブは仰天し、笑いころげます。わたしは何食わぬ顔で言います。「えっと、メリークリスマス」。いや、心配そうなふりをして、こう言う方がいいかな。「これが欲しかったんでしょ?セザンヌの本よ」。
頭の中のこんな空想はすぐに消えました。すっかり忘れていたことがあったのです。少なくとも忘れていたと「思いました」。一つには、わたしは死後の生命を信じているわけですが、必ずしも、人が死んだら(外見上の)姿が変わるだけで(基本的には)今のわたしたちと同じように生きることになると予想しているわけでは全くありません。わたしたちは人生の中で常に変化しているので、自分でも自分に付いていくのが難しくなることもあるくらいです。人生において、かつては「自分らしく」見えた考えが、あとになると、まるで別人の考えだとしてもおかしくないくらい、自分にそぐわないことに気づいたりするものです。そんなわけで、わたしは必ずしも、歴史的な人物として生きていたポール・セザンヌが一人、そこに存在し、それが単にどこか非物質的なところへ「移送」され、天国かどこかですばらしいアトリエをあてがわれているのだなどと信じていたわけではありません。
それでも、わたしには確かに、わたしたちと同じような現実界に閉じこめられていないらしい存在たちとのかかわりがありました。彼らには、わたしたちのように時間と空間の中で「ここにいる」というポイントがありません。わたしは、意識というもの自体がそれまでわたしたちが思っていたのよりもはるかにクリエイティブな要素であることを発見しました。意識は、測り知れないやり方で自分自身から飛び出たり、自分に飛び込んだり、しょっちゅう、自分と相互作用を繰り返すようです。また、わたしは、自分が型にはまらないタイプの気質あるいは精神を備えているということ、そして、創造性の源泉や比較的変わった知識を利用できることを認めなくてはなりません。(次のページへ続く)