Seth Network Japan
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スポーツと健康

健康への道
セッション 1984/03/25

マサ 訳

 ちょうど今、世間では、何らかの体操(エクササイズ)やフィットネス・ジムでの運動、または激しいスポーツに勤(いそ)しむことが流行(はや)っている。明らかに、猫も杓子(しゃくし)も自分の身体に相当、気を配っているように見えるが、生憎(あいにく)、少なからぬ割合の人々が身体のどこかに不調を抱えている。彼等は身体の自発性や強さを信用していないし、彼らには、隅々に至るまで身体のことは身体自身にまかせて大丈夫なのだという信頼がない。それは、個々の人間が自分自身の肉体や、その仕組み、働きについて知っている以上に医学というものは身体のことをよくわかっているのだと習ったからだ。

 彼等は、自分自身の身体の中で起こっていることを映し出すものとしてレントゲン写真を信用するよう教え込まれ、自分自身の感じるものを信頼しないようにと注意されたのだ。ピリオド(筆記しているバッツへの指示)。公的な保健機関が行う発表には「事実」を強調するものがある。例えば、高血圧は人間にとって、ただならぬ脅威になり得るという。当人はすばらしく体調がいいと感じている場合でさえもだ。

 およそ巡り合わせの悪い観念が入り混じったおかげで、大衆は、こうしたハードな運動プログラムに取り組むこととなった。自らの肉体との一体感がないため、多くの人々は、身体の中で起こっていることに対して疑いの目を向ける。肉体とは不純なものであり、病気や欠陥を後世に引き継ぐものだと示唆する宗教的観念もある。また、人々はよく、自分の身体を懲らしめようとして度を越えた運動をしたり、身体が最大限に応えるよう無理強いしたりする。それは、身体が最大限でない反応を示すことに対する信頼がないからだ。

 (4 時 27 分)多くの場合、人々が運動をするのは、単に、運動をしなかった場合に何か起こるのが怖いからに過ぎない。例えば、心臓病を避けるために走っているのかもしれないが、自らの抱えている、その怖れが、正にその不測の事態を招き寄せる手助けをしているかもしれないのだ。

 肉体が健康であることは内側(心)が健やかであることの表現だ。そして、健康でない肉体も一つの表現であり、多くの役割を果たし得る。(休止)言うまでもないことだが、自分の行動習慣や周囲の状況を変えるよりも病気になる方を選ぶ人々もいる。もちろん、そういった変化を自らに強いるために病を患う場合もある。