Seth Network Japan
Seth Network Japan

こんな心的、精神的なジレンマをどうすることもできない自分に気がつくのだ。精神的な落ち込みはよく次のようなことになる。すなわち、クリスマスの音楽と商業的な陳列物(クリスマスのデコレーションやクリスマス向け商品など)によってその落ち込みがさらに強くなり、「神は自らの姿に似せて人間をつくりたもうた」という宗教的な連想によっても強まるということだ。また、そうやって(神から)与えられた身体にはどうやら自分で自分の面倒を見る能力がなく、最初から病気や災害の犠牲になるものと決まっているといった、また別の連想群によってもさらに憂鬱(ゆううつ)が深まる。

 そんなわけで、クリスマスシーズンは君達の社会における人間の希望を抱き、インフルエンザのシーズンは人間の不安を反映し、(同時に)両者の隔たりを示すことになる。

 医師というものはプライベートな人間でもあるわけだが、ここではその職業的な能力のみについて話そう。というのも、彼(医師)は普通、自分の仲間達と共有する観念体系の中で最善を尽くすものだからだ。こうした観念群は単独で存在するわけではなく、もちろん、宗教的、科学的な観念群と絡み合っている。たとえ、それらが別々であるように見えたとしてもだ。キリスト教は慣例的に病気を神の処罰、または神の遣(つか)わされた試練と見なし、慎んで受け入れるべきものとしてきた。また、人間は罪深い生き物であり、原罪という欠陥を抱えており、(だから)額に汗して働くことを強いられるのだと捉(とら)えてきた。

 (これに対して)科学は人間を冷淡無情な宇宙から生じた偶然の産物だと見なしてきた。それは、その中心に意義などない(存在する意味はない)生き物であり、意識というものは単にたまたま生じた物理的なメカニズムの結果に過ぎない。また、その構造の外側に現実などというものはない、というわけだ。少なくともその点において言えば、科学には一貫性があった。ところが、キリスト教は、悲嘆に暮れる人間に向かって「喜びに満ちなさい」、罪深い人々には「子供のような純粋さを見出しなさい」と公に要求する。神を愛せと言うが、その神はいつか世界を破壊すると言い、自分を崇拝しなければ地獄行きを命じるぞと言うのだ。

 多くの人々はこんな矛盾した観念の間に挟まり、とりわけクリスマスシーズン中、病気にかかる。教会や病院は大抵、どんな町でもそこで一番大きな建物だ。また、市の条例に頼らなくても(法的な手続きを踏まなくても)日曜日に開いている唯一の建物であることも多い(欧米では飲食店など一部を除いて日曜日の営業は禁止されていることが多かった)(誰でも)自分の個人的な価値体系と健康とを切り離して考えることはできない。だから、病院は宗教が信者達にじわじわと染み込ませた罪(の観念)から利益を得ることになるわけだ。

 私が今、話しているのは、宗教というものが社会的な生活や地域社会の事業とあまりにも深く絡み合っているため、宗教の基本的な統合性という感覚がすっかり失われてしまったということだ。人間は生まれながらにして宗教的な生物なのだ。