Seth Network Japan
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ウイルス

個人、そして群衆現象の本質
セッション 840

マサ 訳

 (勢いのある声で)ウイルスがいなかったら、君達は生きることもできないし、君達の知っている、君達自身の生物学的な現状も存在し得ない。

 (休止)ウイルス達は「悪者」であるように見えるし、君達は決まって、例えば「天然痘ウイルス」というように分けて考える。しかし、(実際は)至る所でウイルス達が関与して生物学的に微妙なバランスが保たれているのだ。誰の身体にも無数のウイルスがいて、特定の条件下では、いつでも、その人間を死に至らしめる可能性を孕(はら)んでいる。極めて単純化して言えば、この両者(身体のためになる状態と身体を害する状態)が、身体の総合的な条件に従ってオンになったりオフになったり切り替わるのだ。ある期間には「致命的」であっても、別の期間には、そうではない。その(安全な)期間では、至って有益な形で生物学的に反応し、例えば、細胞の活動 ── それが一定量であれば身体にとって有益な活動 ── を起こすのに必要な変化をもたらし、身体をより安定させてくれる。すると、その変化がまた、細胞レベルで他の、同様に有益な変化を引き起こすのだ。

 他の分野での例を挙げるなら「毒」がある。ベラドンナ(毒草の一種)は、すこぶる「致命的」になり得るが、少量であれば、病気になった身体を助けてくれることが昔から知られている。

 (9 時 38 分)少し待ってくれ…。身体の中にいるウイルス達の生態には社会的、協同的な側面がある。彼等に致命的な効果が生じるのは、特定の条件下に置かれた場合でしかない。ウイルス達を破壊的な活動へと導くための引き金が引かれなくてはならないのだ。そして、その引き金は特定のポイントでしか引かれることはない。それは、該当する人間が、死か、または生物学的に危機的な状況を自ら求めている場合だ。

 こうしたケースにおいて、一番の発端となる「感染」は常に感情や心のレベルで始まり、通常、社会的な条件が関係している。例えば、ある(感染することになる)一個人が貧しい社会環境の中でも底辺にいて、その環境の犠牲者であるかのように見えたり、または、社会の一員としての価値がひどく軽んじられていたりするわけだ。

 さて、こうした社会の一員が道を誤り、自暴自棄に陥って社会から脱落し、反社会的な行動を取るようになることがあるのと同じ理屈で、誰かがそうした行動の代わりにウイルスの引き金を引くこともあり得る。その人間がウイルス達の生物学的、社会的な秩序を破壊することで、ウイルス達の一部が突然、致死的な性格を帯びたり、暴走したりするのだ。その結果として引き起こされるのは当然、感染性の病気になる。その限りでは、それは社会的な疾患だ。それはウイルスが突然、破壊的なものに変身するというよりは ── まあ、実際、変身するわけだが ── 全てのウイルス達が関わっている協同的な枠組み全体が不安定になり、脅(おびや)かされることからくるのだ。(次のページへ続く)