彼等(子供たち)は始終、実験をしている。ごく密かにだ。それは同時に目上の者達が彼等を既存の具体的な現実に従わせようとしているからだ。そちらの現実は多かれ少なかれ、彼等のために大量生産された既製品だ。
子供達は楽しい出来事や怖い出来事を創り出す実験をする。自分の経験を自分でどう制御できるのか、その特質を自分の中で確かめようとしているのだ。彼等は嬉しい体験、恐ろしい体験を心に思い描く。実際のところ、彼等は自分の考え、気持ち、意図が日々の生活に与える効果を目の当たりにして夢中になっている。これは自然な学習のプロセスだ。「おばけ」を創造してしまった場合は、それが消え去るように仕向けることも彼等にはできるわけだ。自分の観念が素(もと)で病気になるのなら、病気を本気で怖れる理由などない。病気は彼等が自分で創り出したものだからだ。しかし、この学習プロセスは芽が出たところで摘み取られてしまう。君達が大人になった頃には、自分が「客観的」な宇宙の中にいる主観的な存在に見えるのは確かだろう。そして、他人の為(な)すがままになり、人生の出来事をほんの上辺(うわべ)だけしかコントロールできないのだ。
(10 時 2 分)フロイト派に言わせれば、シンデレラの話は空想、妄想どころか「性の目覚め」を描いた物語にまでなってしまうし、君達の直面してきた数々の失望と照らし合わせてみても、こうした話は実際、人生の現実と真っ向から対立するように見えることだろう。しかし、程度の差こそあれ、君達の中にいる子供は、(現実を創り出すことが)少し巧くなってきたと思ったら、そこで止まってしまったこと、殆どパワーを掴(つか)みかけていたのに、それが永遠に失われてしまったように見えることを憶えている。そして、夢見たことが文字どおり現実となった、別次元の在り方を憶えているのだ。
もちろん、君達の中の子供はもっと多くを感じていた。別のフレームワークの中にある、自分のもっと大きな現実界全体をそっくり感じていたのだ。そこから、まだ出てきたばかりだった子供の君達は、その現実界としっかり繋がっていた。そんな時、フレームワーク2の、より大きな現実界にすっぽりと包まれている気がしていたのだ。
その子供は自分が「どこか他のところから来た」こと、それも偶然ではなく、意図的に来たのだということを知っていた。その子は、自分の心の奥底にある考えや夢、そして自分の身振りや手振りも、自然の世界と繋がっていること、繋がり方の違いこそあれ、草が野原に根を張っているのと同じように、しっかりと結びついていることを心得ていたのだ。その子は(自分の人生が)唯一で全く独自の出来事であること、また(自分が)全く独自の存在であることを知っていた。そして、それが自分自身の焦点(フォーカス)である一方で、独自の時期や季節の下にあるということも、その子にはわかっていた。実際、子供達がそうした事柄を逃すことは、まずない。だから、繰り返しになるが、彼等は自分達の考えや意図や願望が他の人々に与える効果だけでなく、他人が自分の行動にどのくらいの影響を与えるのかも突き止めようと常に実験をしているのだ。その限りにおいて子供達は、大人達の行動にはまず見られないようなやり方で、起こり得る数々の可能性にもっと直接関わりあっている。