シンデレラと創造
個人、そして群衆現象の本質
セッション 824
マサ 訳
1978 年 3 月 1 日(水)午後 9 時 40 分
(今夜、夕食の後、ジェーンと僕は進化論について話し合っていたのだが、話が終わらないうちに…)
こんばんは。
(「こんばんは、セス」)
口述に入る。宇宙の創造、同様に、大衆一般の出来事や個人の出来事の創造にも関連して、しばらくの間、別の種類の神話について考えてみよう。
今夜、我々の友達ルバートとジョーゼフは楽しい夕食の間、童話シンデレラをベースにしたテレビ番組を観た。以前、私が挙げた定義に沿って捉えれば、この御伽(おとぎ)話は「神話」だ。もちろん、君達の知っている世界の創造というのは深遠な事柄であり、そういった大人の真面目な議論と、こんな子供のための話は、およそ関係のないものに見えるかもしれない。また、そんな出所から、出来事の本質に関して科学的に妥当なデータが明るみに出てくることなど、あり得ないように思われるのは、まず確かだろう。
多くの教育者達に従うなら、こういう話になる。そもそも、シンデレラ(の話)はハッピーエンドではないか。(皮肉をこめて)だから、極めて非現実的だと。それは、人生に不可欠な数々の失望に対して、きちんと子供達に心の準備をさせることにならないからだ。また、仙女(魔法使いのおばあさん)などというものは断じて物語作家が想像した絵空事(えそらごと)
でしかあり得ないと。真面目でまともな成人だったら、多くは「空想に耽(ふけ)ったり、何かを願っていたりしたところで何の役にも立ちはしない」と言うだろうというわけだ。
しかし、シンデレラのストーリーでは、身分も低く貧しいながらもヒロインは夢を成就させ、到底不可能に見えるゴールにうまく辿(たど)り着く。壮麗な舞踏会に参加し、王子に会いたいという彼女の願いは一連の魔法的な出来事を引き起こす。そうした出来事のどれ一つとして論理の言いなりにはならない(「論理的には、こうなるはず」というルールに従わない)。突如現れる仙女が使うのは日常生活のどこにでもある普通のもので、それらがあっと言う間に姿を変えてしまう。かくして南瓜(かぼちゃ)は馬車になり、他にも数々の似たような変化(へんげ)が起こる。
この話は、いつの時も子供達のお気に入りだった。彼らには、この話の背後にある有効性がわかるからだ。仙女はフレームワーク2(セス独自の用語。物質的な世界を「フレームワーク1」と呼ぶのに対して、その源泉となっている非物質的な世界を指す)の中にある、人格化された、いくつもの要素を創造的に一個の人物として表している。すなわち、いずれは世を去る自己を助けようと内側の自我が立ち上がり、願いを叶えてあげるために姿を変えて現れるということだ。たとえ、その自己の意向が日常生活の実際的な枠組みとは辻褄(つじつま)が合わないように見えたとしてもだ。内側の自我がこういう形で応える場合、何の変哲もない、ごくありふれた状況が突然、新たな活力に満ち溢れ、当人のために「働いて」見えるようになる。この本を読んでいる君達は、まだ幼い子供だった頃、始終、空想に耽(ふけ)っていたことや、その内容を鮮明に思い出すには、すでに年を取りすぎている。しかし、子供達は、自らが出来事の創造に深く関わっており、そうして創られた出来事が(結果として)自分達に起こってくるように見えるのだということを自ずからよく心得ているのだ。(次のページへ続く)