夢と意識
「知られざる」現実界 第1巻
セッション 699
マサ 訳
夢の記憶というのは、いくつもの事柄が一つになった産物だが、君達の記憶したものとは元々、随分違っていたかもしれない出来事を君達が意識的に解釈したものであることが多い。その範囲で言えば、君達が思い出す夢というものは(記憶した内容よりも)さらに大きな出来事を君達の意識的な頭脳が撮影した「スナップショット」(一瞬だけ、一部だけを写し取ったもの)だ。夢にも数多くの種類やバリエーションがあり、比較的、正確に記憶できるものもあれば、そうでないものもある。ただ、夢を思い出す場合、君達は数ある主観的な出来事の中から自動的に特定の部分だけをつかみ取り、他の部分から引き離してしまう。そして、そのつかみ取った部分を、さらに自分の通常の方向性(とらえ方)に沿って意味を成すように、時間と空間の枠組みという(写真の)「フレーム」にはめ込もうとするのだ。もっとも、夢の中の出来事はあまりにも多次元的だから、そんなことをしたところで、そうそううまくいく(フレームに収まる)ものではない。ひょっとしたら、ここでは、夢と写真、それぞれにおける光景を較べてみたら、わかりやすいかもしれない。写真は、それが撮影された時代特有の出来事を示すもので、例えば(今、写真を撮っても)十字軍の時代(11~13世紀)のトルコ人が1人写るというようなことはない。しかし、夢の中では、そうしたモティーフが描き出されることがあり得るわけだ。
夢の映像を鮮明に思い出せる場合は、時々、それを1枚の写真に写ったものと想定してみたら役に立つだろう。人生の様々な機会にいろいろな場所で撮った自分の写真が溜まっていくのと同じように、君達は夢の中でも、また別の種類の主観的な写真を「収集」しているということだ。まあ、その写真は順々に(時間的に「正しい」とされる順序で)出てくるわけではないのだが、それでも、意識的なレベルで、君達の未来と過去についての貴重な情報を与えてくれる。
こうした、通常の、一般的に認められている意味では、写真の中の肖像達が変化したり動いたりすることはないし、その相互関係が変わるようなこともない。しかし、生きている主観的な夢の写真には一つの枠組みが備わっており、その中では、これらの「肖像達」に独自の機動性があるのだ。彼等(肖像達)は、君達がふだん理解しているのとは全く違う意味での創造性を表している。(気合いを込めた口調で)肉体的な営みの結果は君達も知っている。自分の子供達が生まれてくるのを見ればわかることだ。しかし、自らの夢から生まれた子供達(比喩的な意味)のことを君達が同じように物質的なレベルで体験することはない。また、夢の中の生活がそのまま続いているのを君達が理解することもない。夢の中の生活は、君達の理解できない独自のレベルで組織化されている。そして、君達は、その豊かな源泉から、日々の体験を形成するエネルギーをたっぷりと汲み取っているのだ。その体験の「監督」をしているのが、君達の意識的な頭脳だ。(次のページへ続く)