セスは語る
セッション 550
マサ 訳
(9 時 45 分)さて、君達が拠り所としている視点からでは、全ての出来事が創造性を実現するべく起こっているということに気づくのは、しばしば難しいものだ。また、本来的な意味で君達自身に備わっている自由奔放な創造性を信じることも同じように難しい。君達の(社会的な)体系において(人を)「殺す」ということは倫理上、明らかな犯罪だ。しかし、刑罰として他の人間を殺すことは、元の過ちに輪を掛けた過ちを犯すことにしかならない。1つの教派 ── 「文明」と呼ぶ方がよければ、それでもいい ── を設立した、非常に有名な人(おそらくユーモアを込めた表現)は、かつて(片方の頬を)「打たれたら、もう片方の頬を向けなさい」と言った。ただ、彼の言った元々の意味を理解するべきだ。つまり、頬を打つ者は基本的に自分自身を打っているに過ぎないということを心得ているから、もう片方の頬を向けるのだ。
そういうことであれば、君達は(相手の観念などから)自由であり(君たちのとった)そのリアクションはいいリアクションだ。しかし、こうした理解なしに、憤(いきどお)りを感じたり、似非(えせ)道徳的な優越感から、もう一方の頬を向けたりしたのだとしたら、それは「適切」と呼べる対応からは程遠い。
さて、これは全て君達の生まれ変わりの人生における人間関係にも当てはまることであり、もちろん、現在の日常的な経験にも直結していることだ。他人を憎めば、その憎しみが君達自身をその相手に縛り付けることになる。そのままにしておく限り、その憎しみはいくつもの人生に亘(わた)って君達を消耗させ続けることになるかもしれない。この人生でも他のどの人生でも、君達が特定の性質に意識を集中すれば、その性質が君達の許(もと)に引き寄せられるのだ。(たとえば)自分の受けた不当な扱いの数々をまざまざと思い描いて気にかけているのだとしたら、そうした体験をもっと引き寄せることになる。そして、それがそのまま続けば、次の人生(来世)にもそれが反映されるだろう。(もっとも)人生と人生の間には(そうした事柄も含めて)理解し、熟考するための「時間」があるというのも確かだ。
この人生でこうした機会を利用しない者達はよく、人生が終わってからも(やっぱり)利用しない。(しかし)意識は拡がろうとするものだ。創造しようとするのだ。そうするために自ら内から外へと裏返しになろうとするのだ。こうした論点を君達が理解したり直視したりするよう強制するものは君達自身の外側にはない(君達自身がそうしようとしないかぎり、その先へは進まない)。
だから、「この人生が終わったら、自分の体験を振り返って素行を改めよう」などと言ったところで何の役にも立たない。それは若者が「年をとって引退したら、自分が今、伸ばしていない全ての能力を使うんだ」と言うようなものだ。君達は「次の人生」の舞台を今、整えているのだ。君達が今日、考えている想念が何らかの形で次の人生の骨組みになる。(唱えるだけで)君達を賢くしたり、理解と(他者に対する)憐れみの気持ちで満たしたり君達の意識を拡げたりする魔法のおまじないなどないのだ。