精神の本質。その人間的表現
セッション 756
マサ 訳
ルバートとジョーゼフは夕食のとき、よく(おどけた言い方で)昔の「スタートレック」(邦題「宇宙大作戦」)の再放送を観る。リビングルームのカウチに、なかなか居心地よくすわり、コーヒーテーブルの上に食事を置いて、君達の社会では、どこにでもある、ほのぼのとした、家庭的な日用品に囲まれた中でだ。
こうしてゆったりと腰を落ち着けた状態で(前に身をかがめて微笑みながら)二人が観るドラマはと言えば、惑星が爆発したり、別世界の知的生命達が、善良な宇宙船エンタープライズの果敢なキャプテンや怖れを知らぬスポック達に、立ち向かってこようとしたり、助けの手を差し伸べようとしたりするものだ。しかし、こうした話のどれ一つとして、我々の友達、ルバートとジョーゼフを脅(おびや)かすようなことはない。彼らは自分達のコーヒーを飲んでデザートを食べている。
さて、君達が普通に起きている状態の現実界は一種のテレビドラマに例えることができる。それは、放映される全てのドラマに君達が直接、参加するドラマだ。何よりもまず、それは君達が創造する。個人的な冒険や共同の冒険を君達が形作り、自らの物理的な装置 ── 自分の身体 ── を使って独自のやり方で体感するのだ。周波数の合う番組の範囲は広いが、そこには、いくつもの異なった放送局がある。君達の表現で言えば、これらの放送局はそのまま、活きた体験になるのだ。君達の体験するドラマは、君達自身がそのドラマであり、君達の活動全ては君達を中心として回っているように見える。また、君達は受信機でもある。
夢を見ている状態では、さらにもう一つのテレビがあるかのようなことになる。もっとも、そのテレビは君達自身のテレビに繋がっている。そのテレビを使うと、自分自身の視点からだけではなく、別の焦点から出来事を眺めることができる。このセットを使うと、言ってみれば、ある局から別の局へとジャンプしていける。ただ、眺めるだけではなく、他の時間と場所で何が起こっているのか体験することができるのだ。
そうなると、出来事は違った形で秩序立てられることになる。目覚めている状態と同じように、自ら直(じか)に関わっているドラマを体験するだけではない。活動範囲が何倍にもなって、通常の背景の「外側」から出来事を眺められるようになるのだ。例えば、一つのドラマを見下ろす傍らで、そのドラマに参加することもできるわけだ。