しかし、君達に合わせた表現で言うなら、君達は生きていようが死んでいようが夢を見ている。肉体があるという意味で「生きている」間、君達が「夢を見ている状態」だと考えているものは「意識がはっきりと覚醒した生活」とされているものの下に位置する形になる。そうなると、君達は常に「よそから見た」視点で夢を調べてみることになる。通常の起きている状態から見て具合がいいように見方が偏ってしまうわけだ。しかし、そうすると、夢の中の状況は歪(ゆが)んだ形で体験される結果になるし、(夢の中の様子が)はっきりしていないように見えることもよくある。覚醒した意識状態とは対照的なので、朧気(おぼろげ)に、あるいは不正確にしか見えなかったり、ピントが合っていないように見えたりすることもあり得る。(もっとも)こういったことはいつでも当てはまるわけではない。中には(はっきりと)目を見張った状態で見る夢があることも否定できないからだ。
(9 時 50 分)君達は、本書でこれまでに触れたものも、まだ取り上げていないものも含め、数多くの理由で、自分達の生活から夢を大方、締め出してしまった。君達は、もちろん、時間と空間の中にぴったりとフォーカスを保ち続けなくてはならないわけだが、それにしても、自分自身と夢の体験とをそこまで引き離さなくてはならないような根本的理由はない。
少し待ってくれ…。発明家、作家、科学者、芸術家として日頃、クリエイティブな題材を直接、扱っている人々がいるが、その一部は、自分の生産的なアイディアの多くが夢の中の状況から得られたものであるという事実を(きちんと)心得ている。彼等は夢の中で活動した結果を実際の物質的な生活の中で目の当たりにしているわけだ。その他、(そうした仕事で)訓練されていなくても、起きている間に下した決断を夢の中にまではっきりと辿(たど)れる(元々、夢の中で下した決断であることがわかる)人々も多い。しかし、個々人の現実界というものが、夢の状態に生じる途方もない生産性から湧き起こってできあがった完成品のようなものであることを理解する者は殆どいない。ルバートは、これを「ワンダーワークス(不思議の仕掛け)」と呼ぶが、それは、もっともな理由があってのことだ。起きている間の生活では、意識に変動の波がある。君達流の表現で言えば、物事によく注意できる時とそうでない時があるし、手近な要件から気がそれてしまう時もあれば、一瞬のことにきちんと見事なまでに集中できる時もある。覚醒状態には、そんな風に意識の段階(レベル)がいくつもあるわけだ。君達は普通、そうした段階には殆ど注意を払わない。
君達が受け入れている、意識の「公式な」ライン(グラフに描くカーブ)は、軌道が逸れても、のほほんと、それを一切無視している。通常、こうした出来事(意識レベルの細かい変化)が起こっても、何もなかったかのように、それまでの軌道を暢気(のんき)に描き続けるわけだ。こうした変動は夢を見ている状態でも生じる。(こうした事実を見れば)君達(の意識)が時々、「飛ぶ」(抜け落ちる)ことがあり得るのは明らかだろう。