想像と観念
個人、そして群衆現象の本質
セッション 829 1978/03/22
マサ 訳
(熱心な口調で)繰り返すが、キリストは磔(はりつけ)にはされなかった。歴史的なキリストと考えられている人物は霊的な現実界によって開眼していた一人の男だ。彼は、どんな人間であろうとも、自分が存在するという理由で、在るもの総て(すべてなるもの)と人類の接点なのだという無限の悟りに心を動かされていた。
キリストは人間一人一人の中で神性と人間性が出会うのを見た。そして、人間が神格の中に存在するおかげで死を越えて生きていくのを見た。キリスト教の名に結び付いた惨事は全て例外なく「法の精神よりも法の字句に従う」こと、あるいは文字どおりの解釈に固執することによって起きた。その解釈の下にある精神的、構想的な概念は無視されてしまったのだ。
もう一度言うが、人間は自分の想像力を使うことで自分の人生を方向付ける。それは確かに人間を動物たちと区別する技量だ。人々を結び付け、分け隔てるのは観念の力と構想の強さだ。愛国心、家族への誠実さ、政治的な所属 ―― これらの背後にある観念には君達の世界で最大限の実際的な応用性がある。君達は子供のように自分の成長を自由に想像することで自分自身を時間の中へと投影する。君達は自分に独特の構想的プロセスという色で物理的な体験や自然自体にすぐさま色付けする。かなり首尾一貫して ―― そして深く ―― 考えない限り、想像力の重要性は殆(ほとん)ど君達の目に留(と)まらないだろう。しかし、それ(想像力)は君達の経験する世界、君達の生きている群衆社会をまさしく形成しているのだ。
例えば、進化論は想像上の構築物だ。しかし、数世代の人々がその光(進化論という「色メガネ」)を通して自分達の世界を眺めてきた。それによって自分自身に対する君達の考え方が変わるというだけではない。君達は違った種類の自分を体験するのだ。君達の諸機関(学会、研究機関など)はそれに従って見地を変えることになる。体験が君達の抱いている観念に合うようにだ。君達の行動には特定のやり方がある。(つまり)君達はそれまで存在しなかった捉え方で宇宙全体を眺めることになるわけだ。それによって、想像力と観念は手で触れることのできない形で君達の主観的な体験と客観的な状況を構成するのだ。
(10 時 10 分)例えば、その他、想像上の構築物全てにおいて、それらにどんな長所や短所があろうと、人間は自分が一つの計画の一部であると感じた。その計画を立てたのは、神であることもあれば、自然そのものであることもあるだろう。あるいは自然の中の人間、または人間の中の自然であるかもしれない。そこにはたくさんの神々がいるかもしれないし、一人だけかもしれないわけだが、宇宙には意味があった。「運命」という概念さえ、立ち向かうべきものを人間に与え、行動するよう、人間を奮起させた。(次のページへ続く)