意識と個性
精神の本質。その人間的表現
セッション791 1977/01/17
マサ 訳
さて、口述だ(長い休止)。多次元的な劇場で舞台に上がっている素晴らしい俳優であるつもりになってごらん。どんな役を演じても、平凡な芝居の創造的なパワーを遙(はる)かに凌(しの)ぐ生命力を帯びるような俳優だ。
君達一人一人はそんな企てに乗り出しているところだ。そして、役に没入するあまり自分を見失っている。また、君達は一種のクリエイティブなジレンマにもはまっている。というのも、言わば、役者として自分の演じる役と自分とを混同しているからだ。あまりにも演技に説得力があるので自分でも騙(だま)されてしまうのだ。
「わたしは死んだあとも自分の(現在の)個性を保ち続けなくてはいけない」と君達は言う。まるでハムレットを演じた役者が芝居の後もその役に留(とど)まり続けるかのように。他の役を勉強したり(役者としての)キャリアを積んでいったりすることを拒み、「わたしはハムレットであり、自分の進む道にあるジレンマやチャレンジを永遠に追い続けることに決まっているのだ。わたしはなんとしても自分の個性を保持する」と言うかのようだ。
そんな俳優達も夢状態(夢の中)ではある程度、自分の演じているいくつもの役に気づく。そして(俳優という)芸術家の職人芸の裏にある、自分の本当の個性を感じる。これは前にも言ったことだが、君達は連続性を誇張したある種の「人工的」な感覚を、君達の知っている自己に対してさえも押しつけている。その点を思い出すことが大事だ。君達の体験は常に変化しているし、君達の生活を取り囲む内密な状況もそうだ。しかし、君達の表現で言うなら、君達は物事を進める手続きの方に集中してしまう。その手続きは実際、君達の体験の広範な背景がより理解しやすくなるよう、その範囲を絞るのに役立つのだ。君達の意識を囲み込む、そんな境界線が自然に引かれるようなことはない。
君達には俗世界の文化を形作る集団心理学的な環境がある。それは俗世的な舞台セットに相当し、体験はそこで起こるのだ。特定の心理学的な慣習群が小道具として機能する。そこでは多少なりとも形式に沿った心理学的な取り決めがあり、それが基準点あるいは基準設定として使われる。それらの取り決めの範囲内で、君達は自分の体験をグループにまとめる。君達が物理的に知覚する際、それらは心的な出来事に形を与えるのに役立つ。
今の文章(「君達が物理的に…」)は重要だ。というのも、君達の人生において、体験は身体的に感じ取られ、解釈されなくてはならないからだ。しかし、それでも、出来事は非物理的な源泉から湧き出てくる。前にも言ったように、君達が夢を思い出した場合、その夢は別の非物質的な出来事がすでに解釈されたものだ(本来の出来事そのものではなく、“脚色”されている)(次のページへ続く)。