Seth Network Japan
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理想への衝動

個人、そして群衆現象の本質
セッション 873 1979/08/15

マサ 訳

 ずっと本物の理想家であり続けたいと思うのなら、ある意味で、君達は実践する理想家であらねばならない。巨大なステップを踏み出す方がいいと思う時でも、多くは小さくて実践的なステップを踏んでいかなくてはならないのだ。君達は行動を通して自分の理想とする方向へと動かなくてはならない。さもなければ、幻滅したり、無力感を抱いたりすることになるだろう。あるいは、また、理想とはまるで正反対の徹底的な手段だけが特定の理想的な状態なり状況なりをもたらすのだと感じるようなことにもなろう。

 (休止)生命は活動のレベル全てにおいて、理想を追い求めるべく推進される。その理想が生物学的な性質のものであるか精神的なものであるかは問わない。その追求がそのまま、生きる妙味と自然な感覚の高揚感とドラマを生命に与えるのだ。どんな能力であるにしても、自分の能力を伸ばすこと、自己性の体験を探求し、広げていくこと。そうしたことが目的、意味、そして創造的な高揚といった感覚を生命に与える。それはまた、社会と種(しゅ)にとっての理解と発展にも寄与する。

 瞑想したり、自分の望む目標が達成された様子を頭の中に思い描いたりしても、そうした瞑想や想像を引き起こした衝動そのものに従って行動することを怖れていたのでは不充分だ。理想の位置に向かってステップを踏んでいくのでなければ、生活に高揚感がなく、気が滅入ることになる。むしろ、正反対の理想主義者になり、地震などの自然災害が起こらないかと期待に胸を膨らませるようなこともあるかもしれない。(休止)そういった活動に集中して注意を払うようになることもあり得る。はたまた、世界の終焉(しゅうえん)を思い描くようなことがあってもおかしくはない。いずれの場合も、君達は個人的なフラストレーションの感覚に駆り立てられることになる。そして、おそらく、ある程度、復讐(ふくしゅう)の感覚もあることだろう。自分の期待していた理想像から見ればあまりにも堕落してしまった世界が破壊されていく様子を心に思い浮かべるわけだ。

 しかし、出来事というものはそれ自体で存在するものではないということを理解すれば、本書で論じられている数々の不幸な状況にはどれ一つとして君達に及ぼす力はない。出来事や状況は全て、まず、頭の中に存在するのだ。君達のテクノロジーを駆使した装置で受信した情報であろうとそうでなかろうと、最も深いレベルのコミュニケーションにおいては、いかなる情報も「秘密」ではない(次のページへ続く)