Seth Network Japan
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蓋然性

夢、「進化」、価値の達成 第1巻
セッション 891、1979/12/26

マサ 訳

 (ユーモラスに)今夜のテーマは「大いなる期待(Great Expectations)」としよう ──(チャールズ)ディッケンズの本(“Great Expectation”。邦題は「大いなる遺産」)に準(なぞら)えているわけだ。

 さて、1980 年という年は、その潜在的な全てのバージョン(バリエーション)が今、この時に存在している。もちろん、集団的(社会的)な出来事に関係した話なので(今年までとは)すっかり違った年になることはない。それは、この地球上に住む、あらゆる人々にとって、ということだが、集団的に共有される 1980 年の世界は文字どおり無限に、言わば「身を潜め、待ち構えて」いる。

 これは、単に君達がどんな出来事を現実として物質化するかを決めればよいというような単純なことではない。というのも、来(きた)るべき年の素材として、多少の差こそあれ、君達の表現で言う「母体」(土台)となる一群の蓋然性(がいぜんせい。起こり得る可能性)を君達はすでに造り上げてあるからだ。例えば、(僕に呼びかけて)ジョーゼフ、君が突然、紳士服の仕立屋に変身するようなことは極めて非蓋然的だ(起こる可能性が少ない)。それは、君が選択してきた蓋然性の中に、そうした行動へと導くようなものはないからだ。

 同様に、あらゆる蓋然性を考慮しても、来年、イギリスが突然、イスラム教国家になってしまうようなことはないだろう。世界の人々は実行できる範囲の蓋然性や個人的、集団的な選択肢の範囲内で彼等自身の 1980 年を選んでいくわけだ。

 (長い休止)私は今、たっぷりと時間をかけて話を進めている。というのも、はっきりとさせたいポイントがいくつかあるのだが、その説明が難しいからだ。

 一人の人間が頭の中で思い巡らす蓋然的な行動は、いずれも、その人間の意識的な思考の一部だ。しかし、そのすぐ下(意識下)で人々は何通りにも及ぶ他の蓋然性をも慮(おもんぱか)る。それらは意識的なレベルに達することも達しないこともあるだろう。それは単に、そうした蓋然性が(意識の中で)脇へと退(ど)けられたり、意識的に認識されること自体がないように見えたりするからだ。君達が実際の出来事について考える際、それらは(休止)蓋然性が生命を与えられた姿、すなわち、「心的な蓋然性」の「物理的なバージョン」だと想像してみてほしい。意識的に関わることのない蓋然性は心理上、「端役」を演ずるに留(とど)まる。言ってみれば、それらは、そこにあるのだが、ない(も同然)ということだ。

 君達の意識的な頭脳は「一繋(ひとつな)がり」になった特定の蓋然性だけを(知覚的に)認識された体験として受け入れることができる。すでに話したように、数ある中から蓋然性を選ぶ行為は、意識、無意識、双方のレベルで絶えず続いているわけだが、意識的な体験として知覚しない出来事は(休止)ある程度、君達の無意識的な体験の一部だ。これは個々の人間についての話だが、もちろん、集団的に見て、世界の出来事についても同じ事が言える。どんな行動も可能な限りのあらゆる達成を探し求めるものだ。(極めて力強い口調で)在るもの総ては全ての可能な体験を模索するが、その場合、例えば、痛みや死などの問題は、そうした、より大きな枠組みには当てはまらない。ただ、肉体的なレベルでは(もちろん)当てはまるわけだ。(次のページへ続く)