Seth Network Japan
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行動

個人、そして群衆現象の本質
セッション 833

マサ 訳

 ここでは、ごく簡単な動作を考えてみるものとする。例えば、部屋を横切って(テーブルの上にある)紙を一枚拾い上げたいとしよう。こんな目標なら充分、単純かつストレートだ。その目標は適切なやり方で身体を「駆動」する。そこに関わっている内的なメカニズムを君達が意識的には知らないにも拘らずだ。君達は行く手を遮(さえぎ)るものや邪魔になるものがあることを想像したりはしない。偶然、または運命のせいで、あるいは故意に、家具が置かれているなどとは考えず、適切な方向に向かって、ただ真っ直ぐに進む。その行為には意味がある。それは君達がしたいことだからだ。

 しかし、およそ簡単には記述できない目標、心理的な性格を帯びた目的、あるいは、分類し難い、満足を強く求める気持ちといったものは数々ある。人間は、極めて感情的な性質のある、野心、欲望、好き嫌いを体験する。同時に、自分自身、自分の気持ち、世界に対する知的な観念を抱く。それはトレーニングによって、もたらされるものだ。君達は教えられたとおりに頭を使うからだ。

 ある者は、名声を求め、それなりの能力を備え、その能力によって実際、求めるものに到達できるかもしれない。(しかし)この人物が、富や名声は不幸や不品行、またはその他の悲惨な状況をもたらすと信じることもあり得る。すなわち、「才能を発揮して人々の喝采を得る」という明確な目標、そして「名声を避ける」という、それとは全く逆の明確な目標があることになる。

 (世の中には)配偶者と子供が欲しいと思い、親として立派にやっていける資質もある人々がいる。しかし、その一部は、愛とは誤りであるとか、セックスは人間の品性を損なうものだとか、あるいは、子供を作ることは青春の終わりを意味するなどと確信していることもあり得る。そうなると、こういった人々は、自分がはっきりとした理由もなく、異性との良好な関係を自ら断ち切ったり、あるいは、自分と別れるよう、相手に無理強い(むりじい)したりしているのに気がつくことになるかもしれない。ここでも二つの明確な目標があるが、両者は対立している。

 自分の人生には根本的に意味があると信じている人々は、こうしたストレスに耐えられる。そして、こうした類のジレンマは往々にして充分、適切なやり方で解決されることになる。(これに対し、)人生にはそれ自体、殆ど意味などないと信じている人々の性格は、失望や(他人との)衝突、無力感などによって不幸にも侵食され始めることになり得る。こうした人々は、行く手に必ずや障害があるものと想像し始める。自分がたどり着こうとしている、部屋の隅にあるテーブルと自分との間に突然、物理的な障壁が築かれたと想像する者と同じことだ。(次のページへ続く)