Seth Network Japan
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 少し待ってくれ…。概して、いつの世でも、同じ時代に生まれた人々には意識の結び付きや各パーソナリティーに基づいた繋がりがある。これは君達の理解していない相互関係を通じて生物学的にも精神的にも言えることだ。

 ジョーゼフは、同じ時間の枠組みの中で「彼」(自分)の生きた、いくつかの人生を「察知」したのだった。君達の表現で言えば、それによって、彼は、いつの時代でも地球を共有する人々の間に存在する「家族性」を認識し始めていたのだ。

 (11 時 20 分)少し待ってくれ…。これを説明するのは難しいからだ…。

 各パーソナリティーには自由な意志があり、それぞれ、時空間内での物理的な(活動の)足場として自分の環境を選ぶ。ある時代に関わっている人々は、いつの世でも、特定の問題や難関を乗り越えようとしている。様々な人種は、ただ(理由もなく)「生じてくる」わけではないし、多様な文化も、ただ現れてくるのではない。より大きな自己が自らを分割し、肉体を備えた姿で複数の人間として物質化しているのだ。それぞれ、全く異なるバックグラウンドの下に生まれるわけだが、立ち向かおうとする創造的なチャレンジは同じ種類のものだ。

 黒人の男は君達の時間のどこかで白人の男あるいは女であり、白人の男あるいは女はどこかで黒人としている。圧制者はどこかで圧制(抑圧)されており、征服者はどこかで征服される立場にある。また、原始人はどこかで都会人として生きている。君達の表現で言えば、君達の一般的な時間における同じ地球上のどこかでだ。殺人者はどこかで犠牲者であり、その逆もある。繰り返すが、君達の言う時間と空間の中でだ。

 各パーソナリティーは、その、より大きな意識(自己本体)の意志に沿って自分自身の枠組み(生まれる環境)を選ぶわけだが、君達一人一人は、その意識の一部でありながらも独立している。いつの世でも、こういうやり方で、その「時」ならではの難題が解決されたり、好機が生かされたりするわけだ。

 君達は君達自身のカウンターパート(対応人物)だ。もっとも、ルバートだったら(おかしそうに)「『風変わりな』カウンターパート」とでも言うであろうように、君達一人一人には自分独自の能力がある。そういうわけで、ジョーゼフはネベネ「だった」。学者タイプの男で、冒険を好まず、古代の真理を書き写すことに夢中で、創造性とは何かの誤りであると怖れ、権威主義的かつ強要的「だった」。彼は性的な触れ合いを怖れており、(古代)ローマの裕福な家庭の子供達の教師をしていた。

 それと同時に、同じ世界の同じ世紀において、ジョーゼフは、攻撃的かつ冒険好きで割と粗野なローマ軍の士官だった。こちらは写本や記録文書などに対する理解はないも同然だっただろうが、やはり、疑問を感じることもなく権威(権力)に従った。

 君達の表現で言えば、ジョーゼフは現在、権威を疑い、踏みつけ、脇へと放り投げてしまう男だ。「かつて」自分があれほど尽くした、正にその観念構造を引き裂いてしまうわけだ。